シャーヒ・ズィンダ廟群の入口を入って夏用のモスクを過ぎて階段が始まる左側に2つのドームの廟(15世紀初)がある。
『中央アジアの傑作サマルカンド』は、ウルグベク時代に、西階段の方角の2番目のチョルタックの下に、2つのドームの廟が建築された。伝説によると、この廟はアムール・チムールの乳母ウルジャ・イナガと彼女の娘ビビ・シネブのために建築されたという。
20世紀の中頃には、この廟は天文家のカジ・ザデ・ルミの廟の上に建てられたという仮説もあった。しかし、考古学の発掘データによれば、若い女性の遺骨が発掘されたそうである。これは伝説の通りである。この若い女性は、グルハナの下の土の棺に眠っているという。
同書は、ウルグベクの治世を1409-1449年としている。
その廟の脇室の天井には装飾的なムカルナスのドームがあった。
その拡大。細かな泡が次々に弾けていくようだ。
このような装飾的なムカルナスの最も細かいものはアルハンブラ(アランブラ)宮殿にあるが、それ以前から見られるものだった。
イマーム・ドゥール廟のドーム イラク、サーマッラー セルジューク朝、1085年
『イスラーム建築のみかた』は、ムカルナス・ドームとしては最も古い11世紀終盤のイマーム・ドゥール廟のムカルナ ス。ここでは、一つ一つの層の高さは等しくないけれど、天井全体を覆うドームという点では最も古い実例である。このムカルナスは、外側にはあたかもプリン 型のようにその外形を現している。これがいわゆるシュガー・ローフと呼ばれる形状であるという。
こんなに早くからこんなに装飾的なムカルナスがあるとは。こんなに柔らかなひげができるのは漆喰だろう。
このドームの外側はこちら
ヌールッディーン病院のドーム ザンギー朝、1154-5年 シリア、ダマスカス
こちらの方が2つのドームの廟脇室のドームに近いのでは。シリアだと石造かな。それとも初期のものは漆喰かな。
マドラサ・ヌーリーヤ・クブラのドーム セルジューク朝、1172年以降 シリア、ダマスクス
本来のムカルナスの形を変化させずに積み上げていっている。
石造だとこのような形になるのかな。
スルブ・ホヴァンネス修道院ガヴィットのエルディク 13世紀中期 ガンジャザル、アルメニア
極座標系のムカルナス。
『アルメニア共和国の建築と風土』は、ガヴィットのエルディクにはイスラーム建築の意匠であるムカルナスによる装飾がみられるという。
色がないので確かなことは言えないが、他の部分は石造でも、このドームだけは煉瓦で作られているのでは。
ヤクティエ神学校のドーム イルハーン朝、1310年 トルコ、エルズルム
ムカルナスは凹状のものを並べたり積み上げていくが、このドームでは凸状に盛り上がった幾つかのムカルナスの集合体を1単位として、同じ形のものを積み重ねている。
これらの2つのドームは、おそらくトルコのアルメニアとの国境にあるアニ遺跡のキャラバンサライのドームと同じような色だろう。
それぞれのドームのムカルナス状のものをみていると、このように型成形の焼成レンガを積み上げていったもののように思われる。
『イスラーム建築の世界史』は、ペルシアの初歩的なムカルナス技法が、11世紀になるとペルシアのドームの移行部で発展を遂げ、ミナレットや墓塔の軒飾りと折衷し、11世紀末までには装飾的かつ構造的なムカルナス・ドームを完成させるという。
初歩的なムカルナスに同書は、ブハラのサーマーン廟(913-43年)のドームと、
ティムのアラブ・アター廟(978年)のドームをあげている。
そして、11世紀のムカルナスの発展の例として、
ダヴァズダー・イマーム廟のドーム 1037年 ヤズド
同書は、壁上に八角ドラム、その内部移行部という。
多くのドーム下で見られるように、丸いドームの下に八角形の胴部があり、その下に廟の正方形平面の壁体がある。
しかし、正方形の四隅のスキンチ部分はよく分からない。両端に三角に見えるムカルナスがあるのだが、真ん中がどうなっているのだろう。
ゴンバディ・ハーキ 1088-9年 イスファハーン
同書は、スクインチ・アーチで八角形を導き、さらに16連のアーチを介して、半球形のドームを戴く。ドーム内にはアーチが交差して5点星が描かれる。
アーチ曲線は装飾的な役割を果たすと同時に、大ドーム建設時には構造的なリブとしても使われた。西方(アンダルシアとマグリブ)と東方(ペルシア)を結ぶ道筋上の実例は不明ながら、12世紀までに西方において展開していたアーチ・ネットの進化を考慮すると、おそらく西方から東方へと初歩的なアイディアの伝播があり、それがペルシアで多様化したのではと推測されるという。
直線的な八角形や十六角形の頂部が平たいアーチ状になることによってドーム部が天空のように思えてくる。
同書は、ムカルナスは、ドームの移行部や入口のイーワーンなどにも用いられ、、ペルシアで洗練されるとともに、12世紀半ばにはシリア、北アフリカで、13世紀にはアナトリアでも実例を確認できるという。
ドームの移行部は上図のゴンバィ・デ・ハーキがその例。入口のイーワーンは、バグダードの宮殿回廊部にその例としている。
12世紀半ばのシリアの例は、岩のドームにあるらしい。
北アフリカの例は、
クッパ・バルディユンの天井部 1117年 マラケシュ
『イスラーム建築の世界史』は、北アフリカにおける大きな変化は装飾の進化にある。尖頭馬蹄形アーチが好まれ、ミナレットや入口壁面の装飾に用いられていた交差アーチが発展し、あたかも平面的なレース細工のような多弁形アーチが造られた。大モスクの中央廊では、ムカルナス・ヴォールトが屋根裏からの吊構造となる。これによって、ムカルナスが屋根としての構造的要素ではなくなり、曲面が細分化していく。ドームへの移行部にアーチ・ネットとムカルナスを組み合わせる造形も現れるという。
トレムセンの大モスクのドーム ムラービト朝、1136年 アルジェリア
同書は、前時代のアンダルシアに発するアーチ・ネットは、リブの本数が増え、細くなり、リブの間に立体的な透かし細工のように繊細な造形を作るという。
これがペルシアのゴンバディ・ハーキに影響を与えたとされるアーチ・ネット。
同書は、ペルシアでのムカルナスの構造と意匠両面からの段階的な発展過程は、ムカルナスがペルシア起源であることを暗示する。マドラサを媒体としたペルシア文化の普及に伴い、ムカルナスもペルシア風の建築文化として各地に伝播したという。
ムカルナス自体は、移行部の大曲面を細分化して構築するという構造的な工夫に、装飾的な洗練が加わることによって発展を遂げた。大曲面を層状に分割し、各層を花弁形、逆三角形、半蒲鉾形といった小曲面を用いて文節する。半アーチ曲線によって形成される各曲面を大曲面にうまく納めるため、平面に投影する幾何学的な手法が使われた。ペルシアでは最初は煉瓦かテラコッタで造られていたが、各地では漆喰や石でも造られるようになる。大シリアにおいて、ムカルナスを切石造りにする際に、ペルシアにはなかった発展がみられる。構造的に安定な方式の導入である。煉瓦造から発展した数種の部品を積み重ねる構成から、曲面に合わせた同心円状に拡がる構成への進化であるという。
下から上へ積み上げながら頂部へと収束させるのではなく、ドームやイーワーンの頂点から下ろしながら広げていくような設計をするということなのだろう。
直交座標系と極座標系のムカルナス← →スキンチ部分のムカルナスの発展
関連項目
シャーヒ・ズィンダ廟群2 2つのドームの廟
アニ遺跡 キャラバンサライの妙なドーム
5日目8 アニ遺跡6 キャラバンサライ
※参考文献
「中央アジアの傑作 サマルカンド」 アラポフ A.V. 2008年 SMI・アジア出版社
「イスラーム建築の世界史 岩波セミナーブックスS11」 深見奈緒子 2013年 岩波書店
「アルメニア共和国の建築と風土」 篠野志郎 2007年 彩流社
世界美術大全集東洋編17 イスラーム」 1999年 小学館
「イスラーム建築のみかた 聖なる意匠の歴史」 深見奈緒子 2003年 東京堂出版