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忘れへんうちに 旅編に、中央アジア各地の旅に続いて、イランの旅を記載し始めました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2015/02/06

元興寺1 極楽坊




十輪院前の細い道を西へ、一つ目の角を北へ歩いて行くと、左手に紅葉した木々が見えてきた。それが元興寺。

元興寺の拝観はこの東門から。
説明板は、この門は鎌倉時代の建物として、雄大な気風と、すぐれた意匠を持つ四脚門である。もと東大寺西南院にあった門を、元興寺の極楽坊正門として応永18年(1411)この場所に移築されたものである。東門の設置により極楽坊本堂を中心とする一画が元興寺旧伽藍から独立した中世寺院として再生したことをしめしているという。
まず左方にある拝観受付へ。そして東門をくぐって境内へ。
門を入ると正面が極楽坊だが、右側の生け垣の根元に石仏が並んでいるのを発見。
石仏好きの私はついついそれを辿ってしまった。
様々な石仏と、その前には複弁の蓮華座が並んでいる。錫杖を持ったお地蔵さんが多いようだ。
二仏も多い。釈迦と多宝如来の二仏に対する庶民の信仰があったのかな。
東から北へと石仏は続く。
色づいた草や落ち葉が供えた花のようなものも。
石仏たちにいざなわれて境内の北側へまわってくると、萩の植え込みの美しい紅葉が待ち受けていた。禅室の横長の建物が萩に見え隠れしている。

『わかる!元興寺』は、崇峻天皇元年(588)飛鳥の地で巨大な寺院の建設が始まろうとしていた。寺の名前は法興寺、別名飛鳥寺、またの名を元興寺という。一基の塔に三つの金堂を備え、金銅でできた釈迦如来坐像(現在の飛鳥大仏)、石でできた弥勒菩薩像、刺繍の仏画をそれぞれの金銅の本尊とした日本最初の本格的寺院であったという。
飛鳥寺の伽藍配置についてはこちら
大仏についてはこちら

同書は、やがて都は飛鳥の地から藤原京を経て平城京へと遷る。平安時代初期に編纂された『続日本紀』には養老2年(718)に飛鳥の地にあった法興寺を平城京に遷したという記録が見られる。
これに関しては、元興寺極楽坊本堂の建築材を年代測定した結果、法興寺創建に近い588年ごろに切られた木材であることが判明しているので、寺の移建は間違いない。しかし、飛鳥の地にはその後も飛鳥大仏をまつる飛鳥寺(本元興寺)が存在したので、移建に際しては金堂以外の僧坊など周辺建物を解体して移したのであろうという。

元興寺はかなり大きな敷地をもつお寺だったらしい。
『わかる!元興寺』は、古代元興寺の伽藍については図のように推定されている。元興寺禅室の建物や、塔跡基壇とそこから見つかった鎮壇具、各所に残る礎石がかつての巨大寺院の片鱗をうかがわせるが、大伽藍は今では「ならまち」の下にうもれてしまい、その姿を偲ぶべくもない。
平安時代になると国の財政援助がなくなり、古代から続く寺院の多くが消滅していった。早い時期に建物が失われた食堂以北や南大門以南、西僧坊は町になってしまったが、元興寺中枢部はその後も存続し、鎌倉時代には極楽坊が改築されるだけでなく、小塔院や中門堂などにも僧が住持し、多くの信仰を集めていた。
その後宝徳の一揆(宝徳3年、1451)で、元興寺金堂、小塔院が全焼したという。
同書は、元興寺極楽坊は、本来僧侶の居住施設にあたる僧坊であった。この僧坊の一部が「極楽坊」として発展したわけであるが、元興寺の僧坊には智光曼荼羅と呼ばれる極楽浄土を描いた絵(曼荼羅)が置かれていた。
平安時代以降、阿弥陀様のおられる浄土への信仰が高揚すると、浄土の世界を見ることのできるこの曼荼羅に対する信仰が盛り上がり、多くの人々がここへ訪れるようになった。その結果、元興寺の堂舎が次々と衰退してゆくなかで僧坊の一部のみが「極楽坊」として発展していったのであるという。
やっとこの建物が極楽坊と呼ばれる理由がわかった。
平面図
『日本建築史図集』は、現在、主要伽藍は全くほろび、わずかに僧房のうちの東室南階大房の東の部分が形を変えて残っているだけである。これが極楽坊で、のちに智光曼荼羅の信仰が盛となって、この部分が切りはなされて本堂となり、残余の部分を禅室というようになった。したがってもとは一つの建物であったのを、独立した2室に分離したのであって、その分離は鎌倉初期に行われ、さらに寛元2年(1244)に本堂が大改造をうけて現状のようになったという。
遠方からは、壁と開口部が交互に並んでいるように見えるが、平面図では、東側が6組の引き戸になっている。
何故か上側しか写していなかったが、確かに白い板に格子状に桟を組んだ板戸だった。

同書は、このような経過をもつために、現在の本堂は特異な形をもつ。その内陣は四隅に丸柱をおき、各面に2本ずつの間柱を配しているが、これはもとの僧房の母屋一房分をそのまま形取ったものであるという。
『わかる!元興寺』は、この建物の最も重要なところは、堂内中央に僧坊時代の1房がそのまま取り込まれていることである。まさにこの1房が、極楽坊と呼ばれ、智光法師がおられたと伝えられる房そのものであろう。改築後は、中央1間を方形に囲って内陣とし、その中央やや西寄りに須弥壇と厨子を置く。さらにその周囲を広い外陣が取り巻き、念仏講など多くの人々が集うことを可能とした。この改築を契機として納骨の場へと発展し、極楽往生を願う多くの人々が集い、祈る場へと変化したのであるという。
この天井の低さが、元は僧房という居住空間だったことを頷かせる。また、目を引くような仏像がないのは、金堂など主要な建物が焼失した時に失われてしまったからだろう。
拝観した時は、扉の修復作業が行われていた。古い建物の解体修理などはテレビでは見たことはあるが、その作業を目の前で見ることができた。
北廊下の西隅には閼伽棚(鎌倉時代、国宝)が残っていて、今でも使われているようだ。

極楽坊南面
『わかる!元興寺』は、東を正面とし、桁行、梁間ともに6間で、正面に1間の通り庇が付く本瓦葺きの建物であるという。
外側でも修復が行われていた。

                                →元興寺2 瓦

関連項目
元興寺3 塔さまざま
飛鳥寺の一塔三金堂式伽藍配置は高句麗風
飛鳥の大仏さん



※参考文献
「わかる!元興寺」 辻村泰善他 2014年 ナカニシヤ出版
「日本建築史図集」 日本建築学会編 1980年 彰国社