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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2015/02/13

元興寺3 塔さまざま



元興寺には国宝の五重塔があることで有名であるが、それは実在の塔ではなく、五重小塔と呼ばれ、通常は総合収蔵庫に安置されているものだ。残念なことに、拝観した年の秋は、東博で開催されていた「国宝展」に出品されていたので、見ることはできなかった。

五重小塔 奈良時代末(8世紀) 総高550.0㎝ 木造彩色 元興寺蔵
『わかる!元興寺』は、瓦や組物を精密に表現したもので、一見すると新しい模型のように見える。しかし、その部材は奈良時代末のもので、建造物として国宝に指定されている。もともとは本堂内に据えられていたと考えられるという。
『日本国宝展図録』は、塔の内部中心には、基壇から上まで心柱が通り、上に相輪を立てる。五重の各層は屋蓋と軸部とが一体で、下層の屋蓋上端の四方材に、上層の軸部下端を重ね、各層の組物は内部で心柱に接触していないなど、組物や内部構造は古い多重塔と同様に作られているとされる。頭貫や長押が、軸部の柱に比べて細く、軒裏の桁が断面の丸い丸桁である点などに奈良時代の特色を伝えているという。
『わかる!元興寺』は、この小塔がなぜ造られたのかについてだが、かつて有力だったのが五重大塔のひな形説であった。元興寺には江戸時代後期まで推定高50mを超える巨大な五重大塔が建っていた。奈良の名所にもなっていた美しい塔であったが、安政6年(1859)に火災に遭い失われてしまったという。
大塔跡も行ってみたかったが、元興寺の現在の正門となっている東門のある通りからは入ることができなかった。
50mを超えるというと、近くの興福寺五重塔(室町時代、50.1m)よりも高い塔が、幕末まで奈良にあったのだった。
同書は、通常このような大型建造物を建てる際には模型を製作して構造の確認を行う。しかし昭和2年(1927)に五重大塔礎石の測量調査が行われ、大塔ひな形説に疑いが生じた。現在では大塔ひな形説は否定されているという。

同書は、ではこの小塔はいったい何のために作られたのだろうか。ヒントになるのは元興寺の塔配置である。古代元興寺の伽藍配置は金堂を中央に置き、講堂に繋がる回廊でそれを取り囲む構造を持つ。仏の舎利を納める塔は通常東西に置かれるが、元興寺では東に大塔があるのみで、西には大塔がない。かわりに本来西大塔のある位置に「小塔院」という建物が配置されている。同じく奈良時代の小塔が残存する海龍王寺では西金堂の本尊として小塔が祀られており、元興寺五重小塔も小塔院の本尊として祀られていた可能性がある。
しかし、平安時代に書かれた『七大寺巡礼私記』には、称德天皇が作らせた百万塔を納めたのが小塔院であるという記述もあり、五重小塔についてはなお謎が残されているという。

元興寺極楽坊と禅室の南側、総合収蔵庫の北側には浮図田という五輪塔や石仏が並べられたところがある。
『わかる!元興寺』は、ちなみに浮図とは仏陀のことであり、文字通り仏像、仏塔が稲田のごとく並ぶ場所という意味である。
五輪塔は密教の教義をもとに造り出された塔で、地・水・火・風・空という宇宙を構成する五大要素を体現し、大日如来と阿弥陀如来を塔の形で表したものである。
石塔類にはいずれも「道意」や「妙空」など僧侶の名前が刻まれている。中世の元興寺は興福寺大乗院の菩提寺墓所の一つとなっていたので僧侶の石塔が多いが、臨終にあたって法名をもらった僧侶以外の人も含まれるという。
禅室前には石仏が多かった。
手前の手水鉢は、家形石棺形という(『わかる!元興寺』より)。じっくりと見ることはしなかったが、家形石棺の蓋を逆さまにしたもののようだ。
錫杖をもった地蔵の浮彫が多いが、五輪塔を線刻または平たい浮彫にしたものもかなりある。
同書は、五輪塔と宝篋印塔の形を舟形の碑に浮彫や線刻したものを舟形五輪塔(宝篋印塔)板碑と呼ぶ。組み合わせ式五輪塔や宝篋印塔が鎌倉時代から戦国時代に多いのに対し、この板碑は戦国時代から江戸時代前期に多いという。

総合収蔵庫は、北東部に礎石が並んでいる。

講堂礎石 柱座直径80-90㎝ 中新屋町出土
同書は、礎石の上には柱座と同規模の太さ80-90㎝もの柱が立てられていたと想定でき、講堂がいかに立派なものであったかを知ることができるという。

そして、総合収蔵庫の2階では、小さな木造五輪塔ながたくさん並んでいた。
同書は、中世の元興寺極楽坊は、納骨霊場としてよく知られていた。極楽坊は本尊が智光曼荼羅であり、その堂内空間は極楽そのものと意識されていた。そこに納骨することにより、死者の極楽往生が確信されたのである。納骨塔婆とは、塔婆の形をした木製納骨容器のことで、五輪塔、層塔などの形があるという。
右の2基が宝篋印塔の形をしている。
宝篋印塔は、10世紀に中国で盛んに造られた金属製阿育王塔に起源を持ち、屋根の四隅に隅飾りと呼ばれる突起があることを特徴とする。功徳(ご利益)のある重要な経典、『宝篋印陀羅尼』を納めたとされることから宝篋印塔と呼ぶという。
間の抜けたことに、元興寺では宝篋印塔に注目することはなかったが、宝篋印塔はあちこちで見かけたことがあり、昔の武人の墓かと思っていた。
納骨五輪塔の場合には地輪部(五輪塔最下部の方形部材)に骨穴がある。納骨塔婆の多くは釘穴を有しており、堂内の柱などいたるところに打ち付けられていたようだという。



2014年8月に報道されて驚いた紙製の地蔵菩薩立像も展示されていたが、『わかる!元興寺』には載っていなかった。新聞で見て想像していたよりも大きなものだった。


             元興寺2 瓦←          →奈良町 今西家書院1

関連項目
元興寺1 極楽坊


※参考文献
「わかる!元興寺」 辻村泰善他 2014年 ナカニシヤ出版
「日本国宝展図録」 東京国立博物館・読売新聞社・NHK 2014年 読売新聞社・NHK