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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2015/02/10

元興寺2 瓦



『わかる!元興寺』は、元興寺極楽堂・禅室には1300年の歴史とともに伝えられてきた大量の瓦が葺かれている。その中でも創建時に遡るものは極楽堂西側および禅室南側東寄りに行基葺きで葺かれている一群である。行基葺きとは、丸瓦の重なる部分が凹んでいないために、瓦の厚み分が段として見える瓦の葺き方である。元興寺では、飛鳥時代創建の瓦と奈良時代移建期の瓦がこの葺き方をするものである。法興寺から運ばれてきた瓦は赤みを帯びた色調のものが多いという。
秋の日は短い。総合収蔵庫を見学している間に光が赤みがってしまった。
古い瓦にズーム
極楽堂西側
古い瓦が奈良時代と思っていたのだが、飛鳥時代のものも残っていたとは。赤っぽいのが飛鳥時代のものかな。
飛鳥・奈良時代のものではないが、鬼瓦が面白い。

禅室南東部
言われてみると、東端の1列と20列目から西の丸瓦は本瓦葺きで整然としているが、その間の18列は行基葺きで、屋根に湧き上がるような賑やかさがある。
ただし、2-19列が全て飛鳥や奈良時代の瓦というわけではなく、同書によると、奈良・鎌倉・室町と列によって異なっているらしい。

同書は、一方、軒瓦については、法興寺からはほとんど運ばれていない。法興寺の軒丸瓦は素弁蓮華紋であるが、これは元興寺境内における発掘調査により出土した2点以外は確認されていない。平城京への移建にあたっては、その当時の最新であった複弁八葉蓮華紋を施した軒丸瓦のみが使用されたようであるという。

飛鳥寺(法興寺)の第一形式軒丸瓦 飛鳥時代 奈良文化財研究所蔵
『日本の美術66古代の瓦』は、崇峻天皇元年(588)に来朝した百済の瓦博士が宣教師にも負けぬ意気に燃えて造りあげたわが国最古の瓦である。
瓦博士の指導によって製作された飛鳥寺の創建瓦は2形式あるが、それは百済様式とはいえ、祖型は中国の南朝にあり、南朝の造瓦技術が百済に伝わりるとほとんど同寺にわが国へも伝えられたものであった。即ち、第一形式の鐙瓦(下図)は素弁十葉の蓮花文を飾るが、その中房は小さく、花弁は薄肉で弁端を桜花状にあらわし、周縁は細くなんらの飾りもなく、全体に簡潔な文様であるが、その洗練された気品は、いかにも貴族趣味的な南朝文化の所産とするにふさわしいものであるという。
十弁というのは作りにくいのではないだろうか。ほぼ桜花状の蓮弁が並んでいるが、中には他よりも小さな花弁のものがあり、その弁端は切れ込むというよりは点珠のようになっているものもある。
中房は小さく、蓮子は中央に1個、周囲に5個で、計6個ある。その5つの蓮子が目印となって、それぞれの間に2つの花弁がつくられている。
飛鳥寺第二形式軒丸瓦 飛鳥時代 奈良文化財研究所蔵
同書は、第二形式の鐙瓦は、花弁が十一葉となり、弁端が角張り、反転した先端をあらわすのに点珠をもってするなど、多少の形式化をみとめざるを得ないが、洗練さは失われていないという。
十一弁はもっとつくるのが難しいが、花弁の大きさはほぼそろっている。
こちらのタイプも中房は小さいが、蓮子は隙間のないほど大きい。蓮子と蓮子の間に2つの花弁が配されていて、左側のみ3つになっている。特に蓮子を目印にしたのではないのかも。
『飛鳥の寺院』は、飛鳥寺軒丸瓦の文様は、百済の影響をうけた素弁の蓮華文で、花弁状に表現するものと、角端にして、その先端に珠点を表現するものがある。前者を「花組」、後者を「星組」と呼ぶ研究者もいるという。
ある者は点珠と呼び、また別の者は珠点と呼ぶ。この蓮弁の先端の盛り上がりは何だろう。
『日本の美術66古代の瓦』は、丸瓦は、いわば一升瓶形の模骨に布をかぶせ、粘土板を巻いて叩きしめた土管形を二等分した形であるが、これは尻の部分に玉縁をつけた形と、頭から尻に向かってしだいに細くなる行基葺式の2種類があるという。
十弁の花組は行基葺式、十一弁の星組は玉縁つきという別の形だった。
『日本の美術66古代の瓦』の別の図版では、行基葺式は瓦当部から極端に胴が細くなっていて、玉縁つきなら凹んだ箇所に上の瓦を重ねるところを、行基葺きは上の丸瓦が止まるまで重ねることになるので、上の写真のように屋根が湧き上がったように見えるのだ。

元興寺の軒丸及び軒平瓦(拓本) 奈良時代移建期 元興寺蔵

上部を欠くが、八葉の複弁蓮華文の軒丸瓦に、均整忍冬唐草文の軒平瓦という組み合わせである。
元興寺の古い瓦を葺いた箇所が行基葺きなので、この瓦も行基葺式だったのだろう。

禅室
『わかる!元興寺』は、元興寺僧坊の姿を伝える建物。旧僧坊の平面を生かし鎌倉時代に改築したものだが、細部に当時の最新様式だった大仏様を巧みに使用している。桁行4間、梁間4間で平屋の切妻造、本瓦葺き。屋根の一部に飛鳥時代の瓦を使って、行基葺きを復原している。一房は中央に板扉が開き、左右は蓮子窓とする。床は板敷で、室内は南・中央・北と大きく3室に区切られていたと考えられている。現在は、東側3房分を大きな部屋にしているが、西側の一室は僧坊時代の様子を復原しているという。
拝観した時は板扉は閉じられていたが、同書には東側3房の扉の開いた写真が掲載されており、障子扉が見えている。 西端の扉が閉まったままなのは、紙が貴重なものであった当時、紙を張った障子というものはなかったからだろう。

『日本建築史図集』は、禅室は奈良時代僧房の骨格をよく止めているが、鎌倉初期に分離した際、大仏様の技術を加味して再建されている。昭和の修理にあたって、西北隅の一画が鎌倉時代の僧房の姿に復原されたという。
内部
床まである蓮子窓がよくわかる写真である。
僧房の北側(本堂北廊下より)
残念ながら西北隅は見逃した。
           元興寺1 極楽坊         元興寺3 塔さまざま

関連項目
日本の瓦7 複弁蓮華文、そして連珠文
日本の瓦1 点珠のある軒丸瓦
飛鳥寺の一塔三金堂式伽藍配置は高句麗風
飛鳥の大仏さん


※参考文献
「わかる!元興寺」 辻村泰善他 2014年 ナカニシヤ出版
「日本建築史図集」 日本建築学会編 1980年 彰国社
「日本の美術66 古代の瓦」 稲垣晋也編 1971年 至文堂