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忘れへんうちに 旅編に、中央アジア各地の旅に続いて、イランの旅を記載し始めました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2014/11/25

第66回正倉院展3 鳥毛立女屏風には坐像もある



今回は鳥毛立女屏風が4点も出陳された。

鳥毛立女屏風 とりげりつじょのびょうぶ 鳥毛貼りの屏風 北倉
『第66回正倉院展目録』は、各扇に樹下の一人の女性像を描いており、当初の6扇全てが現存する。このうち本展に出陳される第2扇は立ち姿、第4から第6扇には岩に腰を下ろす姿を表しているという。
これでは立女の方が少ないではないか。
各扇の本紙は楮紙を上下5段に継ぎ合わせ、全面にわたって白土下地を施した上に、念紙を用いて下図の図様を転写し、その上から黒筆で図様を描き起こしている。
面部は硫酸鉛による白色顔料を塗った上から赤色の隈取りを施し、小さく厚い唇には鮮麗な朱を塗り、眉は太く弧を描き、額中央に花鈿、口の両側に靨鈿(ようでん)を点じる。その豊麗な容姿は盛唐墓から出土する女子俑を想起させ、唐代に流行した美人像を踏襲するものと考えられる。
女性の着衣や樹木、飛鳥などの表面は、宝物の名称の由来となった鳥毛を貼り付けて仕上げていたとみられ、各扇の処々に羽毛の微細な小片がわずかながら残存するほか、羽毛の縁を刃物で切って整えた際にできたとみられる刀痕白土下地に点々と確認できる。羽毛は日本産ヤマドリのものと同定されているという。
以前に1扇だけ出陳されていた時には、僅かながら鳥毛の痕跡を確認できたのだが、年を取ったせいか、是非とも鳥毛を見なければという意欲に欠けたのか、全く見付けられなかった。

第2扇 縦136.2横56.2㎝
同書は、上衣の上に半臂を着け、天衣とみられる裂をまとうという。
ブドウの房のような出っ張りで埋め尽くされた長衣。このような着衣をどのように鳥毛で表したのだろう。
他の3扇はいずれも岩に坐った姿だった。
同書は、第4・5扇については特に保存状態が良好で、当初の豊麗な女性の容姿や奇怪な樹木の形態を留めるという。

第4扇
長衣は袖を除いて襞が裾まで続いている。天衣のような長い肩掛けは後ろから回さずに両腕に掛けている。それが当時の流行だったのだろうか、飛天を真似たのならば、肩に回すはず。
第5扇
着衣は同様に縦に襞のある長衣である。上着は短く、胸の下辺りから襞が描かれているので、裙なのだろう。
同書は、樹木の枝先に止まる小禽を墨描するという。
上から2段目右の枝に、セキレイのような細身の鳥が横を向いて留まっている。
第5扇の下貼には、天平勝宝4年(752)6月26日付文書「買新羅物解」の反故紙が用いられており、同種の文書が20数点存在するとこが以前より知られていたが、昭和60年(1985)から3箇年をかけて実施された解体修理により、一連の文書の一部が本紙としても使用されていることが確認された。これにより、本品が天平勝宝4年以降、『国家珍宝帳』に記載される天平勝宝8歳(756)までの4年間に製作されたことが決定的となったという。
岩も樹木も日本風ではない。唐より請来された屏風を日本で写したのだろう。
第6扇
同書は、第6扇は欠損が著しく、面相部を残して全て後補となっているという。
やはり裙を着けて、第2扇のような半臂で肩を覆っている。袖も裙も同じ文様のようだ。
会場ではコピーが展示されているのかと思ったほどだったが、岩や樹木の様子は一番よくわかった。

6扇のうち4扇が出陳された今回の正倉院展であるが、残りの2扇は東京国立博物館で開催された(11月3日まで)「日本国宝展」で公開されており、そのちらしのタイトルは「奈良・東京で、天平美人に会える」というものだった。その裏面に第1・第3扇の画像があった。

第1扇
何かを結んだ紐が長々と裾まで垂れている。他の図も同じような紐があるのだが、一番濃く描かれている。
両手に持っている丸いものは何だろう。
第3扇
木に巻きついて咲いた藤の花か、小さな葉の蔦のようなものに関心があるよう。
裙の襞が細かいのか、一番ふくよかなのか。

鳥毛立女屏風は3扇が立像、残りが坐像と、半々に描かれていたのだった。
唐代の墓室に六曲屏風仕立てにして絵が描かれているというのは、トルファン郊外、当時の高昌の墓地アスターナで公開されている漢族の墓室にも見られた。
『世界美術大全集東洋編4隋・唐』は、はるか遠い新疆トルファン・アスターナ古墳群にも屏風式の壁画や幡がある。中央から派遣された漢人の官吏たちの墓に、都での葬送の儀礼が踏襲されたのであろうという。
日本にも六曲屏風がもたらされ、同じような屏風を日本でも制作したということは、墓室画だけでなく、調度品として六曲屏風が作られていたことを示すものである。しかし、現在中国で見られるものは、墓室画だけ。

仕女図 盛唐、開元天宝年間(713-756) 韋家墓墓室西壁 陝西省長安県
同書は、盛唐期玄宗朝の開元天宝年間から安禄山の乱までの時期は、皇族に連なる高位の身分の墓よりも、やや低い官位の墓が増え、壁画墓を造ることが広く行われるようになった。そのためか、この時期の壁画は薄彩色に彩色されたことによるのか、顔料の質のためか、鮮やかな彩色をとどめる壁画が少なく、保存状態がよくない。
盛唐晩期以降、六曲屏風式の構図は普遍的に使われた。屏風式花鳥図はその当時の新たな様式であるが、屏風式人物画は六朝の墓室にすでに出現していた。屏風式人物壁画は六朝から中晩唐に至り、人物の表情や、姿勢などがしだいに変化しつつあるが、人物が樹下で行動するという基本的なジャンルは続いてきたという。
樹下に女性が描かれた墓室画である。このように描かれた屏風が日本にもたらされたのだろう。どの図にも樹木と岩が描かれている。
中央の2扇が坐像、他は立ち姿である。女性一人というものはなく、お付きの者が登場する。それが鳥毛立女屏風と大きく異なる点かな。
左から3つめの扇
岩ではなく、椅子に腰掛けて、琵琶を弾いている。他の扇でも椅子に坐っていて、岩の上に腰を下ろしたものはない。

ところで、何故どの場面にも樹木が描かれているのだろう。
同展図録の「鳥毛立女屏風と唐墓壁画樹下人物図屏風」では、墓室内の壁画は基本的に、墓主の霊魂が永遠不死の理想世界である天界=神仙世界へと昇ること、すなわち昇仙と密接に関わるモティーフによって構成されているのであり、同じ墓室内に描かれる屏風画についても、墓主を昇仙へと導く役割を担っている可能性が高い。
そもそも中国では、漢代にはすでに樹下人物の図像が登場しており、その中には西王母などの神々が樹下に坐す図像も含まれるなど、神仙思想と密接な関連が予想される。中国では古来、大樹は天地をつなぐ柱とみなされ、神々が天地を往来する依り代と考えられてきた。
つまり唐墓壁画に描かれる樹下の人物は、樹木を介して天地を往来する昇仙、あるいはそうした神仙と交感することができる道士を表す場合があり、墓主の霊魂がこれらの樹下人物のように樹木を依り代にして昇仙することが期待されたに違いない。そしてこうした唐墓壁画樹下人物図屏風と極めてよく似た形式をもつ鳥毛立女屏風に描かれる6人の女性像についても、同様に神仙と関わる存在として描かれた可能性が想定できるのであるという。
そんな風には思ってもいなかった。

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                     →第66回正倉院展5 鳥毛立女屏風に描かれた岩

関連項目
第66回正倉院展1 正倉を見に行く

※参考文献
「第66回正倉院展目録」 奈良国立博物館編 2014年 仏教美術協会
「世界美術大全集東洋編4 隋・唐」 1997年 小学館