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忘れへんうちに 旅編に、中央アジア各地の旅に続いて、イランの旅を記載し始めました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2014/10/24

中国の山の表現2 三国時代から隋代



『世界美術大全集東洋編3三国・南北朝』(以下『世界美術大全集東洋編3』)は、漢代はまだ絵画が自立していず、したがって名のある専門の画家は伝えられていない。三国・西晋時代に至って初めて名のある絵画専門の画家が出た。そして東晋に至ると顧愷之が登場し、自身画家として名を成したのみならず、はじめて絵画を芸術として確立した
南朝・宋の宗炳(375-443)は、年老いて病を得たのち、かつて遊歴した各地の名山を描き、坐臥して描かれた山水のなかに心を遊ばせたという。このように魏・晋・南北朝時代になると、知識人のあいだでは自然のなかでの隠逸の暮らしに憧れ、山水を詩に詠んだり、また画で表現したりすることが盛んになるなど、山水を描くことは理念的にも、飛躍的な発展を遂げるのであるという。

列女人智図巻部分 東晋(4世紀後半) 絹本着色 25.8X470.3㎝ 伝顧愷之筆 北京故宮博物院蔵
『世界美術大全集東洋編3』は、「女子箴図巻」の作者を顧愷之とする積極的な理由は乏しく、それは「列女人智図巻」についても同様であり、絵画史上における顧愷之の評価の高さが、「名品すなわち顧愷之」とする図式を生み出したのであろう。
今日、魏・晋・南北朝時代の画家の名を冠して伝わっている作品は、いずれも当時の著名画家の名を付会したものにすぎず、すべて後世に描かれた作品とみなしてよいであろう。しかし幸いなことに、そうした後世の作品のなかにも、原本を比較的忠実に模写したと考えられる絵画も少数ながら伝世している。それらは模写とはいえ、原初の面影をとどめており、魏・晋・南北朝時代の絵画の一端を今日にまで伝える、貴重な伝世絵画とみなすことができようという。
そのようなわけで、この作品が東晋時代の様子を表したものかどうか断定はできないのだが、一応東晋時代のものとして見ていくことする。
衝霊公?なる人物は三曲の屏風のようなものに囲まれて坐っている。衝霊公その人が描いた山水画を衝立など調度品に仕立てて、自分がその景色の中で暮らす境地だったのだろう。

洛神賦図巻部分 東晋時代 伝顧愷之筆 絹本着色 27.1X572.8㎝ 北京故宮博物院蔵
同書は、画面構成は、曹植と洛神との恋愛物語が洛河を舞台とした自然景観のなかで展開する。そのため人物を中心とする各場面にはほぼ例外なく山石や樹木が配されるなど、画面全体にわたって山水表現がふんだんに取り入れられている。
峰々は櫛の歯のように並び、腕を伸ばし指を広げたような樹木が幾本も描き添えられ、洛河の流水表現は形式化されている。しかし、こうした古様な山水表現のなかにも、いくつかの新たな表現が芽生えていることに気づく。たとえば樹木や山石には、種類や大小高低による差違がつけられており、同一モティーフの繰り返しによる単調な表現をできるだけ避けている。また長巻全体を通して遠近表現が意識的に試みられていることも注目すべき点であり、近景・中景・遠景が巧みに配され、画面の空間的な違和感は和らいでいるという。
山も木も緑色で表されて、見分けられないものもある。自然の景観よりも人物が大きく、樹木の法が山岳よりも大きく表される。洛河の流れの中に岩もあり、その流れに勢いや高低差も表現されている。 

女子箴図巻部分 東晋時代 伝顧愷之筆 絹本着色 24.8X348.2㎝ 大英博物館蔵
同書は、いっそう進んだ山水表現が認められる。「女子箴図巻」のなかで山水が描かれた場面は1か所のみであるが、栄枯盛衰を比喩的に表現した場面において、太陽と月、および弩を持った人物とともに、かなり本格的な山岳が描かれている。つまり、ここでは『女子箴』の文章に基づく象徴的な表現にとどまることなく、三角形を積み重ねることで山岳の塊量が意識的に示されており、もはや観念的な山岳表現からは脱している。また断崖や土坡などを組み合わせて複雑な山勢を描き出し、そこに鳥や動物をバランスよく配置するなど、その構築性に富んだ山水表現には格別の進歩が認められるという。
画面右上の三足烏のいる赤い円形のものが太陽で、一部雲がかかっている。左上には白い月が雲の上に出ているが、そこに描かれているのはウサギでもないような、蟾蜍でもないような。
その下には2羽のヤマドリのような鳥が飛び、山頂部を挟んだ右側にはトラがいる。弩を持った省略してしまったが、山の左側に大きく表された人物は、このトラを狙っているのだろうか。
確かに三角を積み重ねたような山の表現だが、樹木の大きさも考慮されていて、山肌の露出した高山の崖や、その稜線に生えた木々がよく表されている。

伝世の絵画が模本の可能性が高いとすると、当時のオリジナルが残っているのは墓室や石窟ということになる。

西王母図部分 丁家閘5号墓前室西壁 五胡十六国・北涼(4世紀末-5世紀前半) 甘粛省酒泉市
同書は、墓室内は塼壁面上の草泥層の上に微細な黄土で下地塗りをし、壁画が描かれている。
天井部西壁には渦巻く雲気と西王母、上方に月、下部に山岳が描かれるが、それ以外に傘蓋蓋を持つ侍女、下方に三足烏、九尾狐、天馬などが描き加えられ、いくつかの神話を暗示させる
基本的には漢代の様式、画題を踏襲しており、中央画壇の動向はともかく、ここ甘粛省の交通の要衝ではいまだ絵画史の大きな革新はおこっていないことが推定できるという。
山並みのところどころに樹木の赤い幹が見える。広葉樹らしい葉も描かれていた痕跡も見えて、剥落したか褪色したらしいことがわかる。
キツネとカラスの間の左右対称にオーバーハングした峰の表現も妙で、省略したがその上に西王墓が坐している。図の上辺にぴらぴら見えているのは、草だろうか、蓮華座とは似て非なるものである。

鹿王本生図部分 北魏(439-535) 敦煌莫高窟第257窟西壁中層
色は5種類あるとはいえ、山の形はどれも同じ。ここでは山は風景を表しているだけでなく、横に展開する物語の場面の境界にもなっている。
つづきはこちら
狩猟図部分 西魏(535-557) 敦煌莫高窟249窟窟頂北披
前に描かれた青や茶色の山々は、形は北魏時代のものとそう変わらないが、やや立体感のある彩色が施される。その背後にそびえる輪郭だけの峰々は、前の山よりも急峻に表されている。
樹木も描かれているが、幹の色しか残っていない。
249窟伏斗式窟頂の画像はこちら
薩埵太子本生図部分 北周(557-581) 敦煌莫高窟第428窟東壁南側
数ある釈迦の前世物語の一つで、日本では玉虫厨子の捨身飼虎図として知られているもの。
『敦煌ものがたり』は、太子は狩猟に出かけた山中で、飢餓に苦しむトラの母子に出会い、哀れに思い、自らの身を虎の前に横たえて自分の肉を食わせようとした。S字状に16景3段に描かれているという。走る馬はよく描けているが、見たことのない虎はひどい。
ここでも山並みは景色というよりも場面の区切りとして描かれている。

考えてみると、敦煌莫高窟で修行に励んでいた僧や画工の見ることのできる山といえば祁連山脈の支脈の一つの西の端、三危山くらいである。
敦煌の町へと戻る途中からはこのように見える。莫高窟の僧たちも、敦煌の町へ托鉢に行き来する際見ていたであろう木のない山並み。

南北朝時代、北魏が滅んで中国は東西に分裂する。敦煌が西魏の時期に東方では東魏が立ち、北周の頃は北斉があった。そして577年に北周は北斉を滅ぼし華北を統一、581年に隋が南朝の陳を倒し中国を再び統一した。
まだ西魏や北周期の敦煌莫高窟では似たような山岳表現が続いていたが、東の方ではどんな山水図が描かれていたのだろう。

孝子図部分 北斉(550-577) 石棺 高62.0長234.0㎝ アメリカ、ネルソン・アトキンズ美術館蔵
『世界美術大全集東洋編3』は、近景から遠景の山々へと積み上げていく遠近表現が巧みで、かなり広大な奥行空間を形成している。ここでは一つの画面に三つの主題を表現しながら、それらが別個の場面として遊離することなく、画面全体を自然な景観として統一的に表そうとする意図が感じられる。それは、初唐から盛唐にかけて成立した、広大な奥行空間をもつ山水画の画面構成に、確実に近づいていることを示すものであろう。また独特の圭角を有する岩は、他の石棺線画には見いだしにくいものの、百済(7世紀前半)の山水文塼下部や左右両端の岩山と親近性があり、当時の東アジアの一様式であったと推定されるという。
近景には低山とそこに遊ぶ鹿や高い木、中景には自然を楽しむ人々、遠景には高い山岳。その山は奇妙な形である。

山間禅僧 隋(581-618) 敦煌莫高窟第62窟北壁西側
隋になると、敦煌でも突然山らしい図が出現する。おそらく中原からの新しい山水図が請来されたのだろう。
中ほどの低い山並みの上下に赤い衣をまとった僧が山を背に坐っている。山に比べて人物が大きすぎる。やっぱり莫高窟では、山岳図は場面を区切ったり、人物の背景でしかなかったのかな。


遊春図巻 隋 絹本着色 43.0-80.5㎝ 伝展子虔筆 北京故宮博物院蔵
『世界美術大全集東洋編4隋・唐』は、中央左上部から右下にかけて、ゆったりと大河が流れ、対岸の幾重にも聳える峰のあいだには、白い雲がわきあがり、山中には朱塗りの楼閣と田舎の陋屋が点在し、谷筋の小川には朱塗りの橋が架けられ、岸辺には馬に乗る貴公子が従者を伴って歩む。山川草木みな春の緑に映え、水面を渡る風は優しく、静かな波に光が輝く。江南の長閑な春の光景を俯瞰した遠い視点から描き、対岸の左奥に幾本もの砂州を重ねて続く平遠の景を構図する。緻密で細密な描写は、春の情趣あふれ、見るものを惹きつける親和的な世界を描き出している。山の稜線の点苔や樹木の描き方の平板さ、土坡や山肌の同じ縞状の描写の繰り返しに六朝的な平明さが看取される。日本の『絵因果経』のような童話的な世界にも通ずる趣がある。
作者と伝えられる展子虔(生没年不詳)は北斉から隋初めにかけての画家。唐代の李思訓(635-718)とその子李昭道などの青緑山水画の本とされたという。
同じ隋代でも、江南の地あるいはそこを訪れた人物が描いた山水画は、ここまで描かれるようよになった。
人物も小さく描かれ、風景の中に溶け込んでいる。

   中国の山の表現1 漢時代山岳文様は博山蓋に← →中国の山の表現3 唐代
 
関連項目
平成知新館5 南宋時代の水墨画
中国の山の表現4 五代から北宋
中国の山の表現5 西夏

※参考文献
「世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝」 2000年 小学館
「世界美術大全集東洋編4 隋・唐」 1997年 小学館
「中国石窟 敦煌莫高窟1」 敦煌文物研究所 1982年 敦煌文物研究所
「中国石窟 敦煌莫高窟2」 敦煌文物研究所 1984年 敦煌文物研究所

「敦煌ものがたり」 東山健吾・松本龍見・野町和嘉 1989年 新潮社
「図説中国文明史5 魏晋南北朝」 稲畑耕一郎監修 2005年 創元社