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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2013/10/25

オリンピア考古博物館3 青銅の鼎と鍑(ふく)



オリンピア考古博物館第2室には、幾何学様式時代と初期アルカイック様式時代の青銅製の武具の他に、青銅製の鼎があった(明記していない場合は博物館内の説明板より)。

鼎 幾何学様式時代(前1050-700年)

といっても、中国の鼎(殷後期、前14-11世紀)と比べると脚が極端に長い。
背後の板状のものも別のもっと大きな鼎の脚。
中国では動物の肉を煮炊きするものだったが、ギリシアの鼎は、そのためには脚が長すぎる。どんな用途があったのだろう。
上の鼎にないものが下図の輪っかだ。

左から

1 鼎の脚 鋳物 前8世紀第3四半期
4 鼎の脚 魚の骨の飾りがある 前8世紀第3四半期
5 鼎の把手 透彫と馬の装飾 前8世紀
6 鼎の把手 透彫装飾がある 前8世紀
7 鼎の脚 この種の物では最古の一つ。浮彫でジグザグ線と四角い区画に小馬が浮彫されている 前8世紀第3四半期

輪っかは鼎の把手ということだが、こんな大きな把手が付けられた鼎はかなり巨大なものだったのだろう。
2・3の拡大

2 鼎の把手 透彫装飾 前9世紀
拡大しても透彫には見えない
3 鼎の把手 同心円状の線刻と小さな馬の像がある 前8世紀第3四半期
鼎の把手及び把手の飾りの小像 前8世紀
馬の他に人物や犬のような動物がある。どの像も細身で表される。
左 鼎の把手飾り おそらくギリシア神話の金属職人テルキーネスを表したもの 前8世紀末
腕の長さ(元の腕よりも短くなっているとしても)に比べて、脚が極端に長い。鼎の脚が長いこととも関連があるのかな。
右 鼎の把手 小馬が乗り、ジグザグ文の透彫が施されている 前8世紀
想像復元図
『オリンピアとオリンピック競技会』は、鼎はもともと実用品であったが、神域に奉納品として捧げられるようになったという。
その他にも同書は、神殿の想像復元図に、しばしば鼎を屋根飾りにしている。例えば、ゼウス神殿やメトロンなど。
この図の通りだとすると、上のテルキーネス像が付いた把手は巨大なもので、巨大な把手のついた鼎の大きさはどんなものだったのだろう。ゼウス神殿など、大建造物の屋根飾り用鼎だったのでは。

脚のとれた鼎 残念ながら説明板を写していなかったので、制作年代は不明

上図の鼎とは形が異なる。
ただの大鍋かも。でも、胴部の左前と右端に脚の痕跡が残っているような。
翼を広げた鳥形の青銅板が付けられていた。付けるための穴や小さなリベットが残っている。
脚が3本なら、鳥形装飾板も3箇所にあったのかな。それとも把手の下側にだけ取り付けられていたのかな。
よく似た大鍋がウラルトゥにもあった。

牛頭装飾付き大鍋 前8世紀末~7世紀 トルコ、アルトゥンテペ出土 青銅 高20㎝口径26㎝ 神奈川県、シルクロード研究所蔵
『世界美術大全集東洋編16西アジア』は、二つの牛頭把手の大鍋はウラルトゥ美術を代表する作品である。大鍋の口縁は外側に反り返っている。
このような丸底の把手付きの鍋は西アジアの調理用鍋の典型的な形で、古くから土製のものが使用されていた。その形をまねて金属で大型に製作し、牡牛の装飾把手をつけたのは、特別な儀式に用いられたためと考えられるという。
すると、この鼎には、ギリシアの鼎の特徴であるリング状の把手ではなく、下図のような牛の頭形把手だった可能性もあるのか。

また、『ウラルトゥの美術と工芸展図録』は、本来は牛の脚をかたどった三脚の上に据えられ、径1mに達する大きなものもある。口縁のところには雄牛や鳥、神像などの形をした把手が付けられている。このような青銅鍋はフリュギアやエトルリアでも出土しており、ウラルトゥの文化的影響を示しているという。
牛の頭とは限らなかったようだが、オリンピア考古博物館の大鍋は、ウラルトゥより請来されたものかも。

上 蓮華の打ち出し装飾のある大きな器のリング状の把手 前6世紀末
オリンピア考古博物館で展示されていた把手では最大のもの。これが把手とは、いったいどんな大きな器だったのだろう。


中央 水盤 東方由来 前7世紀初め
片方の把手が残っている。 中央の花の両側に向かい合うライオンが立っている。
把手の付け方や付属のものは、おそらく鍑がギリシアにもたらされた後にギリシアの工人によって取り付けられたものだろう。これはユーラシア草原地帯起源の鍑(ふく)とみて間違いないだろう。
『シルクロード絹と黄金の道展』は、鍑は紀元前9世紀から8世紀頃に作られ初め、初期騎馬遊牧民の時代にはユーラシア草原地帯のあらゆる場所で使われるようになったという。
鍑として比較するのに適した画像がないので、時代の下がる鍑を示す。

鍑 前4世紀末~3世紀初 高41㎝ ロストフ州出土 アゾフ博物館蔵
鍑はこのように脚が円形の台のようになっていることが多いので、ギリシアにも鍑があったのかと驚いたのだが、鍑の古い作品をギリシアで見ることになるとは。

もっと驚いたのはこの作品。背後の壁に想像復元図があり、しかも複数あったのに、全体を撮っていなかった。説明もあったのに。
大鼎 前670年
『OLYMPIA』は、東方の原型を受け継いだライオン頭部、グリフィン、セイレーンが周囲を巡るという。
セイレーンは把手のように左右一対付いているが、こんな大きなものをこの小さなセイレーンを掴んで持ち上げることはできなかっただろう。
円錐形の台 前8世紀 
同書は、別の鼎に付属した台。打ち出しによる装飾があるという。
想像復元図ではアッシリアの有翼精霊(4枚羽根)が反時計回りに行進している場面だ。有翼精霊は帽子を被ってアッシリア風でもないが、ナツメヤシの蕾のようなものを左手で持っている。清めの儀式に使うものという(『アッシリア大文明展図録』より)。
脚の間や精霊の間の植物はナツメヤシということになるだろう。
この台では4枚羽根の人物、あるいは鳥は前向きで立っている。しかもその間に植物がある。これが、ナツメヤシでなくて何だろう。そして上方にはザクロのような実が繋がってぶら下がっている。
と、ここまで見てきてやっと気付いた。第1室で通りすがりに見てアッシリアの青銅板だと勘違いした後期ヒッタイト時代の青銅板は、この鍑の台のようなものを広げたものだったのだ。
だから下が広く上がすぼまり気味の形をしていたのだ。

鼎に付いていたグリフィンやライオンの頭部

左端 最初期の打ち出しによる表現 前700年頃
グリフィンの頭部は築造のものが多い。目に骨の象嵌のあったものもある 前700年頃
(説明は『OLYMPIA』より)
鼎の把手の付属品として作られた鳥形装飾 前8-7世紀
有翼女性像が多いが、有翼男性像もある。
『OLYMPIA』は、前8世紀末~前7世紀初頭、技術は東方よりもたらされた。植民都市という大きな波と共に、ヘレニズムが地中海と黒海に広まった。植民都市の支配者たちは、帰国する時に美術品を持ち帰った。ギリシアの工人たちは、東方の美術品に影響を受けた。その真似をし、吸収すると同時に、独自の様式や表現法、美術作品を生み出し、ギリシアの工人たちの個性を生み出したという。
第2室に置かれている青銅製品は、東方より将来されたものではなく、東方様式を消化吸収した新たなギリシアの美術様式による作品だったのだ。
特に鍑は、黒海北岸に居住した騎馬遊牧民スキタイが使っていたものだろうし、ウラルトゥの大鍋も黒海沿岸で手に入れることができただろう。
当時はまさに東方化様式の時代だったのだ。

中には気付かずに通り過ぎてしまった鼎もあった。

最初期の鼎 前9世紀
東方化様式以前の鼎はこんな形をしていたようだ。
と思っていたら、第2室の片隅の小奉納品と一緒に脚だけは写していた。
もう一つ小さな鼎があった。
小さな奉納品の中には青銅製の鼎もあったようで、それぞれが様々な形をしている。もっと丁寧に写していれば、形の変遷を辿ることができたかも。

縦長の第2室の最後にヘラ神殿のアクロテリオン(棟根飾り)が置かれている。
右向こうの鼎も写していないものの一つだった。

オリンピア考古博物館2 後期ヒッタイトの青銅板
                             →ギリシア神殿9 デルフィに奉納した鼎は特別

関連項目
ギリシアのグリフィン
ギリシア神殿10 ギリシアの奉納品、鼎と大鍋
ウラルトゥの美術2 青銅の鋳造品
積石塚は盗掘され易い
フン以前の鍑(ふく)はサルマタイとスキタイ
フン族に特徴的なものは鍑(ふく)らしい
オリンピア考古博物館1 ミケーネ時代

※参考文献
「OLYMPIA THE ARCHAEOLOGICAL SITE AND THE MUSEUMS」 OLYMPIA VIKATOU 2006年 EKDOTIKE ATHENON
「オリンピアとオリンピック競技会」 ISMEME TRIANTI PANOS VALAVANIS 2009年 Evangelia Chyti
「シルクロード 絹と黄金の道展図録」 2002年 NHK

「世界美術大全集東洋編16 西アジア」 2000年 小学館
「大英博物館アッシリア大文明 芸術と帝国展図録」 1996年 朝日新聞社