お知らせ

忘れへんうちに 旅編に、中央アジア各地の旅に続いて、イランの旅を記載し始めました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2013/08/23

ギリシア神殿2 石の柱へ



木造だったギリシア神殿は、前6世紀頃、石造となっていく。


オリンピアのヘラ神殿 前590年頃 貝殻凝灰岩 床面18.75X50.01m 円柱の柱径と柱の比は4.21
『世界美術大全集3エーゲ海とギリシア・アルカイック』は、オリュンピアの聖域の北西角には、前8世紀末頃から周柱をもたない神殿が立っていたようであるが、現在の遺構は、前6世紀初頭に建設された木造神殿の柱が石造に置き換えられたもので、ドーリス式最古の神殿の一つに数えられる。
2段の基壇の上に正面6本、側面16本の円柱が巡り、アルカイック期独特のやや細長い平面をもつ。ナオス(神室)の前後にイン・アンティス(壁端内柱)型のプロナオス(前室)とオピストドモス(後室)がつく標準的な構成をとるが、ナオスの壁際には一つ置きに控壁がつく珍しい列柱を備えている。
基壇とナオスの壁体下部約1mは創建時から切石造りで、壁体上部には日乾し煉瓦が積まれ、扉枠やアンタエ(壁端柱)には木材が使われていた。柱間が比較的大きいことや石の梁が残っていないことから、円柱が石材に置き換えられたあとも、エンタブラチュアと屋根は木造のままであったと思われる。また、隅部の柱間が狭くなっているので、トリグリフとメトープのあるフリーズが存在していたことが推察されるが、上部構造についてはテラコッタ製の瓦や美しく彩色された巨大なアクロテリオン(屋根の頂部装飾)を残すのみで、詳細は不明であるという。
当初は、下回りは石、壁は日干レンガ、柱は木、柱の上部も木、屋根はテラコッタの瓦葺きという神殿だったようだ。
紀元後173年に当地を訪れたパウサニアスは、オピストドモスの柱の1本が樫の木であったことを伝えているが、当初よりドーリス式の柱頭を備えていた木造の柱は、時間をかけて徐々に石造の柱に交換された。そのため、柱径(1.00-1.28m)やドラムの高さ(単材の柱も含む)やフルーティングの数(16本および20本)にばらつきがあり、柱頭のエキヌスは、偏平なアルカイック期のものから直線的なヘレニズム、ローマ時代のものまで変化に富む。ストゥッコ(漆喰)で表面を仕上げられたあと、柱頭部に彩色が施されたという。
円柱のフルーティング(fluting、縦溝)の数までは数えなかったが、エキヌスの形の違いには気が付いた。左右のエキヌスは同じ形だが、中央のものは異なっている。
また、この神殿の円柱が元は木でできていて、傷んだ箇所から修復した結果、ドラムの大きさがまちまちになってしまったことは事前に知っていたので、コリントスの一石柱を見るのとは異なった思いを持って残された柱1本1本を見て回った。
ヘラ神殿について詳しくは後日旅編にて。
前590年のオリンピアのヘラ神殿は、少なくとも柱は木だったが、10年後には屋根以外は石造の神殿が造られるようになったらしい。

コルフ(ケルキラ)島のアルテミス神殿  前580年 内室9.35X35m

同書は、ギリシア神殿が屋根を除き完全な石造に移行し始めるのは、アルカイック時代のかなり早い時期である。アルテミス神殿は、前580年頃に建造された最も初期の石造周柱式神殿である。規模はテルモスの神殿の約2倍ほどあり、正面に8本、側面に17本の円柱を配していた。基壇と壁体はほとんど失われているが、上部の石材がいくらか残っており、建設当初から全体が石造で計画されたことをうかがわせるという。
柱がモノリトス(一石柱)だったのか、ドラムをむつみ重ねたものかの記述がないのが残念。
『ギリシア美術紀行』は、巨大な柱頭はこの時代の特徴で、ずんぐりした急激に先細りする柱身と共に神殿を重々しいものにしている。しかしその印象を決定的なものにしているのは幅広いエンタブラチュアと高い三角破風であるという。
柱頭も円柱も残っているらしいが、ここでもどのような柱だったのか記されていない。
『世界美術大全集3』は、正面の破風に魔除けのためのゴルゴン(メドゥーサ)像を掲げたことからゴルゴン神殿とも呼ばれるという。
石柱だったら、こんなに巨大な丸彫りに近い石彫を支えることもできただろう。
2007年に採り上げたこのゴルゴンは、最初期の石造神殿のペディメント(三角破風)を飾っていたのだった。

サモス島のヘラ第3神殿 前560年頃 床面52.5X105
『世界美術大全集3』は、神殿建築が真に格調高い意匠を獲得するには、木製の列柱が石材に置き換えられ、軒や梁に色彩豊かな外装が施され、巨大な規模へと拡大される第3神殿の建設を待たなければならないという。
サモス島第1・第2ヘラ神殿についてはこちら
それがモノリトス(一石柱)だったのか、ドラムを積み重ねたものだったのか。
唯一向こうの隅に立っている円柱はドラムを積み重ねたものだ。
これが創建当時の柱だったとすると、木柱から石柱に替わった時点で、すでに石材を小さく切り出して積み重ねるということをしていたことになる。
しかし、オリンピアのヘラ神殿のように、後の時代に修復して、ドラム式になったのかも知れない。

エフェソスのアルテミス神殿 前560-460年頃 床面115.1mX55.1m
『世界歴史の旅トルコ』は、ギリシャ人がこのエフェスに入植する前は、このアルテミス神殿の場所はキュベレの祀られた聖地であったといわれる。このキュベレはアナトリアに伝統的に続く地母神信仰の流れの中に捉えられるものであった。
アルカイック時代のアルテミス神殿は、115.1mX55.1mと西アナトリアを含める当時のギリシャ世界の中で最大級のものであり、すべて大理石でつくられた最初の建造物であった。神殿はサモス島に起源をもつといわれる二重周翼式であり、南北には2列の列柱、東西には3列の列柱が配置されている。イオニアの建築家達はエジプト、ウラルトゥの列柱をもつ神殿からかなりの影響を受けていたと考えられる。この127本の列柱群に囲まれた内陣の中にアルテミスの神像が安置されていた。一説では神殿入り口の柱36本にレリーフがほどこされていたという。しかし、前356年、大火災で焼失してしまうという。
アレキサンダーがエフェスへ侵攻したとき、エフェスのアルテミス神殿の再興を試みようとしている。しかし、エフェスの人々はそれを断り自分たちの手で再建を始めた。
2世紀前半、異民族の侵略によりアルテミス神殿は決定的に破壊され、その後、再興することはなく荒廃していったという。
確か、後の東ローマ皇帝ユスティニアヌスがコンスタンティノープルのアギア・ソフィア大聖堂を再建した時に、エフェソスのアルテミス神殿の円柱が多く運ばれたというのを、ガイドのアティラさんに聞いた。理由は、速く聖堂を造り上げるためで、エフェソスのアルテミス神殿だけでなく、各地から、一神教のキリスト教からすれば、異教で多神教のギリシア・ローマ時代の神殿から運ばれたという。
しかし、イスタンブールのアヤソフィアで見られる円柱は、どれも大理石の一石柱だった。再建されたアルテミス神殿の円柱だったのだろう。

エフェソスのアルテミス神殿址で、たった1本残されたアルテミス神殿の円柱を木々の間から撮った。20年近く前にプリントした写真なのでかなりぼやけているが、どうにか円柱と、円柱の上の巣とコウノトリが写っていた。
どう見てもドラム式のこの円柱こそがアルカイック時代の柱だろうか。

セリヌンテのC神殿 シチリア 前550-530年頃 石灰岩 床面23.93X63.72m
『世界美術大全集3』は、シチリアの植民都市セリヌス(現セリヌンテ)のアクロポリスには、4棟の6柱式神殿がある。そのなかで最も古いのがC神殿と呼ばれるもので、前6世紀中頃の建設と考えられる。側面の柱は17本と多く、非常に細長いプロポーションをしている。これは東側正面に二重の周柱を備えているためで、セリヌンテやシラクーザなどシチリアの神殿によく見られる特徴であるという。
向こうの列柱はドラムを積み重ねたものだが、こちら側に倒れている円柱群は一石柱のように見える。この円柱群とC神殿とはどんな関係にあるのだろう。
円柱の柱径と柱高の比は側面で4.78というと、この時代の円柱にしてはすらっとしている方だ。そう見えないのは、上部構造に比べて柱自体の高さがないからで、柱が細身なのだろう。

コリントスのアポロン神殿 前540年頃 石灰岩 床面21.48X53.82m 円柱の柱径と柱高の比は4.16
同書は、商業都市として早くから豊かな繁栄を築き上げたコリントスは、建築の技術や様式においても先駆的な役割を果たした。町の中心にあるアゴラ(広場)に隣接して建てられたアポロン神殿は、全体が石造の最も初期の作例で、ドーリス式の典型としてその後のギリシア神殿に規範を与えた。
石灰岩の円柱は柱頭を除いて単材でつくられており、西側正面の5本と南側の2本が残ってアーキトレーヴの一部を支えている。
アルカイック期らしくずんくりとしているが、実際は柱身のエンタシス(弓形の膨らみ)がほとんどなく直線的で、柱頭のエキヌスの膨らみも控えめで、この時代の作品としては洗練された感じを受けるという。
テラス状の台地に一際高く位置づけられた4段の基段をもち、ステュバテスは21.49X58.82m、6X15柱、正面側面の比2対5、東西に長いアルカイク神殿特有のプランをもつ。
周柱廊は、ケルキュラのそれと異なり、正面で1.5柱間隔、側面で1柱間隔という普通の規模であるという。

パエストゥムの第1ヘラ神殿 イタリア 前540年 貝殻石灰岩 床面24.52X54.27m
同書は、ギリシア人が南イタリアに建設した植民都市ポセイドニア(現パエストゥム)には、前6世紀半ばから5世紀中頃にかけて建設されたドーリス式神殿が3棟残っている。そのうちアゴラの南に最初に建設されたのが第1ヘラ神殿である。ドーリス式神殿としては異例の平面形式をもっている。正面9本、側面18本という周柱の数は、ドーリス式としては例外的に多いが、個々の円柱は全体の規模からすると比較的小さくつくられている。つまり、建築家は大規模な神殿をつくるら当たって、柱や梁の各部材寸法を大型化する代わりにその数を増やし、柱間を狭くして梁にかかる重量を軽減するとともに施工の合理化をはかったものと考えられる。このことはナオスの中央に列柱を置き、壁体と列柱で全幅を4等分したことにも表れている。
周柱と壁体との間隔が広く、柱間にしておよそ2間分が取られている点は、コルフのアルテミス神殿(前580年頃)からの影響が感じられるという。
切妻の高さは正面の幅によって決まるので、柱頸部かなりくびれた背の低い円柱の上に大きな三角破風を載せた姿は、かなり押し潰された印象を与えたはずであるという。

パエストゥムのアテナ神殿 前510年頃 石灰岩(一部砂岩) 床面14.54X32.88m イタリア
同書は、前6世紀末に植民都市ポセイドニア(現パエストゥム)のアゴラの北側に建てられたドーリス式神殿は、規模はさほど大きくないが、ドーリス式とイオニア式の二つのオーダーを併用した最も初期の例として興味深い。
正面6本側面13本の周柱式であるが、隅部での柱間の縮小はなく、逆に最外部のメトープの幅が広くなっている。したがって、トリグリフの間隔を均等にして柱の中心を内面へずらして隅部のおさまりを調整する古典的なドーリス式の規範からは外れているという。
アルカイック期の神殿で、ペディメント(三角破風)までが残っているものが他にないので、この外観が当時普通だったのかどうかわからないのだが、ペディメントとフリーズまでの高さが、円柱の短さを強調しているようだ。この時代の神殿は、このような押し潰されたような印象を受けるバランスの悪さだったのだろう。
そこまでして丸彫りの群像が並ぶ大きな三角破風や、石彫のメトープを載せるには、神殿にとって、それだけ重要な場面を表していたからなのだろうが。
トリグリフははずれてしまっているらしい。メトープの幅が一番外が広いというのも写真ではわからない。
平面構成では、ナオスの西側にオピストドモスを設けず、東側に8本の円柱に囲まれた開放的な前柱式のプロナオスをつけている。このタイプのプロナオスは、先にセリヌンテ(古名セリヌス)のG神殿(前520-450年)で試みられているが、東正面の通廊付近の空間に余裕をもたせる構成は、セリヌンテの先例(ほかにC神殿、F神殿がある)のみならずイオニア地方の二重周柱式神殿からの影響をうかがわせる。更に、基本的な構造部材には石灰岩を用いているが、トリグリフやイオニア式の柱頭など細部に砂岩を用いている点も装飾性を意識したものと考えてよいという。

アイギナ(エギナ)島のアファイア神殿 前500年頃 石灰岩 床面13.77X28.81m
同書は、アテネの西、サロニコス湾の中央に浮かぶアイギナ島の丘の上には、アルカイック期最後の完成されたドーリス式神殿の姿を伝える美しい遺構が残っている。水夫の守護神アファイアに捧げられたこの神殿は、東西に長い矩形の神域の中央に立つ。基壇3段、正面6本、側面12本の周柱式で、ナオスの前後には2本の内柱をもつイン・アンティス型のプロナオスとオピストドモスが配置されている。プロナオスの円柱は敷居の上に立っており、かつては背の高い格子扉で仕切られていた痕跡を残す。オピストドモスとナオスの間の隔壁には出入口が開いているが、その位置は中心から外れており、後世に開けられたものと思われるという。

平面図
見取り図

側廊の上には木造の床が張られていた。上階へはおそらく木の梯子で昇ったものと思われる。また、正面の柱間と柱径の比を8対3の整数比で決める一方、オーダーの数理的な原則と視覚的な美しさの両立がはかられており、よりいっそう高度な古典的ドーリス式へと近づいているという。
トリグリフの間にはどんな浮彫のメトープが取り付けられていたのだろう。
神像を納めたナオスの内部は2層に重ねられた2列の列柱によって3廊に区切られ、上下の円柱の間に挿入された石の梁は、レグラ(小縁)とグッタエ(露玉装飾)がつくだけの低いアーキトレーヴで、トリグリフやメトープはないという。
ナオスの上層の列柱も一石柱だ。
このように、コリントスのアポロン神殿が建立された前540年より以前の神殿にドラム式円柱が見られるのに、コリントスのアポロン神殿や、前500年に建立されたエギナ島のアファイア神殿の柱が一石柱というのはどういうことなのだろう。
古い神殿も一石柱だったが、後世の修復でドラム式に替わっていったと考えてよいのだろうか。
それとも、コリントスとエギナ島は近いので、この周辺地域では、ドラム式を好まずに、時代が下がってもモノリトスにこだわったということだろうか。


  ギリシア神殿1 最初は木の柱だった← →ギリシア神殿3 テラコッタの軒飾り
    

関連項目
ギリシア神殿5 軒飾りと唐草文
ギリシア神殿4 上部構造も石造に
コリントス遺跡8 アポロン神殿
メドゥーサの首

※参考文献
「世界美術大全集3 エーゲ海とギリシア・アルカイック」 1997年 小学館
「図説ギリシア エーゲ海文明の歴史を訪ねて」 周藤芳幸 1997年 河出書房新社
「世界歴史の旅 ギリシア」 周藤芳幸 2003年 山川出版社