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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2013/08/20

ギリシア神殿1 最初は木の柱だった



『世界美術大全集3エーゲ海とギリシア・アルカイック』は、前8世紀初め、エーゲ海を中心とした海上貿易が盛んになり、各地に強力なポリス(都市国家)が成立するようになると、建築においてもオリエントとは一線を画した独自のスタイルが確立されるようになった。そうした建設のエネルギーは、まず神殿建築に注がれた。先行するエーゲ文明には、大規模な宮殿址はあるが、エジプトやメソポタミアに匹敵するような壮麗な神殿の址が見当たらない。これは彼らの宗教観がオリエントとはかなり異なっていて、神を絶対的で超越した存在として意識していなかったことの表れである。その時代にあって、宗教施設と呼べるものの一つに犠牲を捧げるために野外に設えた祭壇があったが、前8世紀頃からこれと組み合わせて神像を納めるための特別なシェルターを設けるようになり、専用の建物が生まれた。これが最初のギリシア神殿である。当初の神殿建築は、原始的な構造と耐久性のない材料でつくられた小屋のようなものであったと推察されるが、ギリシア彫刻が大型化する前7世紀中頃からこれに歩調を合わせるようにして、ギリシア人は祠を大型化して立派な神殿をつくり始めるという。

神殿型奉納品 ペラホーラ出土 テラコッタ 前8世紀前半
最初の「神の家」のモデルには人の住家が充てられたことがよくわかる。それは後部にアプシス状の壁のあるU字形の平面をもち、正面に2本の支柱で支えられた前柱廊を備え急勾配の屋根を載せているが、こうした建築形態の歴史は古く、青銅器時代にさかのぼるという。
耐久性のない材料というのは、木の柱や土壁ということだろう。
住宅復元図 現コリントス西近郊クラコウ 前19-17世紀
こうした建築形態の歴史は古く青銅器時代にさかのぼるという。
『THE ACROCORINTH』は、最初期の定住は、アクロコリントスの東山麓で、新石器時代(前3000年頃)。周辺地域には少なくとも青銅器時代の8つの場所が確認されている。それらの内で最も重要なのはコラコウで、ミケーネ時代にはコリントスよりも重要だったという。
礎石は小さな石を低く積み上たもの。その上に日干レンガのようなものを積み上げて壁体にし、表面に漆喰などを塗った。明かり採りのためか片側に2つ三角形の窓を明けている。部屋は3つに分かれ、木戸で仕切っていた。屋根は丸太を小屋組みにし、土か草のようなもので覆った。入口上には軒飾りのような出っ張りが見える。
神殿ではなかったためか、入口前には柱がない。
トゥンバ エウボイア島レフカンディ遺跡 前10世紀 幅10m全長45m 
『図説ギリシア』は、トゥンバの峰の上で発掘された。この建物は、その一端は楕円形になっている。中央の部屋には床に2つの墓室が掘り込まれ、一方には3頭の馬が、もう一方には胸を黄金の板で覆われた女性が埋葬されていた。発掘者は、この建物を一種の葬祭殿であると考えてヘローン(英雄廟)と呼んでいるが、この解説には異論も唱えられているという。
石の基壇に土壁の長い馬蹄形の建物の周囲を高床式の通路、あるいは縁側のようなものが巡っている。高床式の床を支える柱列がやがて周柱になっていくのだろうか。掘っ立て柱?
その通路(縁側)の縁に小屋組みの屋根が架かっている。その屋根は草葺きかな。
メガロンA・B テルモス 前8-7世紀初頭
『世界美術大全集3エーゲ海とギリシア・アルカイック』は、アポロン神殿には前身となる建物があり、一般に「メガロンB」と呼ばれている。これは、前室と2つの内室からなる細長い矩形の神殿で、壁体は日乾し煉瓦でつくられ、屋根は草葺きもしくは土葺きの木造であったと思われる。また、これに隣接して「メガロンA」と呼ばれる建物が発見されているが、こちらは後部にU字形の内室を備えており、おそらくさらに年代はさかのぼると思われる。ギリシア神殿の正面は一般に東を向いているが、ここに残る建物はいずれも南を向き、土着信仰の伝統的習慣を残しているという。
神殿の平面が、U字形から矩形へと変化していく様子がよくわかる遺跡だ。
矩形のメガロンBの外側には、U字形に柱が並んでいる。
レフカンディ遺跡のトゥンバのように、小屋組みの屋根は周柱まで達していたのだろう。  
アポロン神殿平面図 テルモス 前630-610年頃
同書は、メガロンの細長い矩形の広間を踏襲し、さらにその内部中央に列柱を加えて梁を支える一方、日乾し煉瓦の壁体の周囲に礎石を置き、正面5本、側面15本の木柱を巡らせて瓦屋根の軒を支える形式をとった。柱の礎石は当初独立していたが、後に連続した基壇のなかに取り込まれた。周廊は神像を納めるナオスの壁を風雨から保護するだけでなく、さまざまな奉納品や記念碑を展示するのにも役立った。ナオスの後ろには見せかけの柱廊玄関がつけ加えられ、これはのちにギリシア神殿の特徴の一つであるオピストドモス(後室)として定着するが、正面入口にはプロナオスが存在せず、ドーリス式神殿としての平面形式が定まっていなかったことを示しているという。
やはり周柱は屋根の軒を支えるためのものだったのだ。屋根が瓦となって重くなったために、柱の下に礎石を置いて、耐久性をもたせる工夫をしている。
平面図からは、礎石は柱の下だけでなく、周廊全体に敷かれていたように思える。列柱廊と呼んでもよいのだろうか。
神殿模型 アルゴス、ヘライオン(ヘラ神域)出土 前8世紀末 テラコッタ 高さ45㎝ アテネ、国立考古博物館蔵
『世界美術大全集3エーゲ海とギリシア・アルカイック』は,平面図の概要が、ギリシア本土のテルモスの古神殿の跡とほぼ一致することから、一般に神殿模型と考えられている。
両傾斜の屋根を玄関の上まで延ばす復元もあったが、その部分は陸屋根であったとする今日の復元が最も信頼性が高い。ただし玄関前面の2本の柱は、角柱の可能性もある。側壁に開けられた三角形の穴は、通気孔をかたどったものであり、また破風地の大きな開口部は2階への出入口と考えられる。
この模型そのものの制作年代は屋根や壁面に施された幾何学文様から判断することになるが、屋根に描かれた犬歯文と砂時計文は中期幾何学時代、斜行メアンダー文はとりわけアルゴスの後期幾何学時代、曲線的な植物文はアルカイック時代初頭にそれぞれ特徴的な文様であり、確定的な年代設定は困難である。犬歯文と砂時計文を家屋模型ゆえの特殊性とみなして、前8世紀の末と年代づけるのが目下のところ最も妥当と考えているという。
神殿模型も矩形になっている。
『世界美術大全集3エーゲ海とギリシア・アルカイック』では、サモス島のヘラ神殿を第1から第4までをたどっている。ここでは第3神殿までを参考にして、神殿が巨大化していき、柱が木から石へとかわる様子をみていきたい(神殿の大きさは、ウィキペディアより)。

第1神殿 幅6.5m奥行32.86m 前8世紀前半
同書は、サモス島のヘラ神殿も周柱式の先駆的な例としてイオニア地方の神殿建築に多くの示唆を与えた。第1神殿は、中央に列柱をもつ細長い矩形の広間から出発し、おそらく雨水から壁体を保護するためと神殿を他の建築から区別するモニュメンタルな性格を与えるために周囲に列柱廊が加えられたという。
列柱廊が造られたのは前8世紀前半あたりらしい。
第2神殿 幅(周廊を含む)11.7m奥行37.7m 前7世紀中頃
同じ場所に建てられた第2神殿は、最初から周柱式として計画され、東正面にプロナオスを加え、神室内部の列柱を廃止したかたちで再建された。しかし、この段階でも依然として列柱は木造で、屋根は伝統的な草もしくは土葺きであったという。
神室では天井を支えるために中央に柱列を置いていたが、それを廃止して、どのように屋根を葺いていたのだろう。
列柱の代わりに、両側壁から細い出っ張りが周柱と同じ数だけ出ている。その上に木の梁を渡して、梁の中央から柱を立てて、屋根を支えたのだろうか。
第3神殿 幅52.5m奥行105m 前560年頃
同書は、こうした神殿建築が真に格調高い意匠を獲得するには、木製の列柱が石材に置き換えられ、軒や梁に色彩豊かな外装が施され、巨大な規模へと拡大される第3神殿の建設を待たなければならない。
中央に列柱を並べた場合、正面入口から神像を見通すのに不都合なので、大型の神殿では2列に増やされることが多くなったという
柱が木から石になったのは前6世紀ということか。壁体はまだ日干レンガか土だったのかな。
このように、ギリシア神殿は木造だった。前6世紀頃に柱がやっと石になった。
サモス島の第3ヘラ神殿の柱が石材になったというが、それは丸彫りのモノリトス(一石柱)だったのだろう。

               →ギリシア神殿2 石の柱へ

関連項目

ギリシア神殿5 軒飾りと唐草文
ギリシア神殿4 上部構造も石造に
ギリシア神殿3 テラコッタの軒飾り
コリントス遺跡8 アポロン神殿

※参考文献
「世界美術大全集3 エーゲ海とギリシア・アルカイック」 1997年 小学館
「図説ギリシア エーゲ海文明の歴史を訪ねて」 周藤芳幸 1997年 河出書房新社
「THE ACROCORINTH」 Anastasia Koumoussi 2010年