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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2013/03/12

東寺旧蔵十二天図1 截金と暈繝



涅槃図についてまとめているうちに、金剛峯寺の応徳仏涅槃図や京博蔵釈迦金棺出現図や、東寺旧蔵・現京博蔵の十二天図の截金はどうだったかなと気になっていた。ちょうど京都国立博物館で「国宝 十二天像と密教法会の世界」展が開かれていることを思い出したので、最終日の2月11日に見に行った。
かなり以前に密教美術は面白くないなと感じるようになって以来遠ざかっていたが、この十二天図は素晴らしかった。截金と彩色の両方が楽しめる極上の仏画である。
館内に置いてある「出品一覧・展示替予定表」には、12幅とあったが、記憶では、十二天全てが展観されていたわけではなかった。片面の隅に五大尊1幅が掛かっていたので、十二天図はせいぜい7幅程度だったし、保護のために照明を暗くしてあるのでよくは見えなかったが、第1室は截金文様の宝庫だった。
美術展にいくと「作品保護のため照明を暗くしています」といった断り書きが壁に貼り付けてあるのを見ては、「若い学芸員は目がいいからこれで十分に見えるのだろうが、老いた目にはほとんどわからない」などといまいましく思うのが常だった。
だが、このような仏画が堂内に掛けられているのを想像してみると、当時の照明から考えても、決して明るくはなかったはず。実は暗い方が、臨場感を持って鑑賞することができるともいえる。

しかしながら、当時はなかった単眼鏡という文明の利器を用いて截金文様を凝視しまくったためか、目が疲れた疲れた。後は図録でみようと明るいミュージアム・グッズ売り場に進むと、何となく違和感があるのだった。それはこの特別展に関連のある書籍やグッズ以外にもいろんなものがたくさん並んでいるからではなかった。
どこにも図録を置いていなかったからで、室内を見回すと、高いところに「図録は売り切れました。増刷の予定もありません」という紙が貼られていた。
私にとって展覧会とは、博物館で見る楽しみが半分、図録で勉強することが半分というくらい図録は必要不可欠なものなのに!
後日実家の本棚を探すと、京博で1998年に開催された『王朝の仏画と儀礼展』の分厚い図録が眠っていた。私が購入したはずの図録が何故実家にほったらかしになっていたのかはともかく、九死に一生を得た思い。

『日本の美術33密教画』は、十二天は密教の護法神で、古く八方位に配した護世八方天(伊舎那天<東北>・帝釈天<東>・火天<東南>・閻魔天・羅刹天・水天・風天・毘沙門天)があり、順次梵天・地天・日天・月天を加え十天から十二天へと発達した。十二天は曼荼羅の最外周に諸天とともに描かれ、別尊としても一尊独立して描かれることがある。
「東宝記」によれば、長久元年(1040)に五大尊や十二天像を新写して東寺の宝蔵に収めたが、太治2年(1127)に焼失した。これらは宮中の真言院で毎年正月に行われる後七日の御修法(ごしちにちのみしほ)に懸けられるため翌年の法会に備えていそぎ仁和寺円堂本を写させたのが本図とされるという。
制作年のはっきりした仏画だ。金剛峯寺蔵の応徳涅槃図(1086年)よりも40年ほど遅く、京都国立博物館蔵の釈迦金棺出現図(11世紀末)よりも30年ほど後の制作ということになる。
この年月の開きが、截金にどのような違いを見せるのだろう。

同書は、十二天は中央の錦の円座上に坐し、両側に小脇侍を従える。色彩は朱・丹・緑青・群青・黄土・代赭などの上質の顔料を、原色の対比をさけて、柔らかい明快な色調で統一し、繧繝や彩色文様に加うるに精巧な截金文様を多用し華麗な画面を展開する。優雅な色調、整った像容の東寺像に、画面の中に吸引されるような安らぎを覚えるのは12世紀の貴族の趣好を投影するものといえようという。
全体をある程度の距離をおいて見ると、截金はわからず、平安仏画の色彩の優美さと、着衣の照り隈(ハイライト)による立体感の表現などが浮かんでくる。
もう京博の第1室でどのように並べられていたのか思い出せないので、『王朝の仏画と儀礼展図録』を参考に十二天を並べてみた。ただし、十二天それぞれについての説明がどの文献にも見当たらないので、探し出せるまでは説明のないままとする。

 1 月天
右手に蓮華の花を持っている。
肩から斜めにかけた条帛に網文、裙の返しに立涌文、下半身を覆う裳には九ツ目菱入り変わり(三重)七宝繋文などが截金で表され、彩色で条帛の縁に亀甲繋文がある。
 2 日天
月天に比べると2侍者も含めて肌が黒ずんでいる。後七日の御修法の時には蝋燭の近くに掛けられたので、黒ずんでしまったのだろうか。
条帛の文様はよく残っていないが、縁飾りに亀甲繋文、裳には卍繋文が截金で表される。
また、文様ではないが、毛氈座の縁の房飾りにも截金で等間隔に細い線があしらわれる。
 3 風天
こちらは元々茶色っぽい肌で描かれたようだ。
髪の筋が金泥で表される。
鎧の胸飾りの赤い箇所には石畳文、襟元には辻飾り付き変わり格子文、腹部の赤い部分には七宝繋文、天衣に立涌文「米」形入り変わり(三重)七宝繋文、鎧の内衣に九ツ目菱入り変わり(三重)七宝繋文、裳に菱繋文など、一見地味な色彩だが、截金文様の種類が豊富だ。
 4 水天
『日本の美術33密教画』は、
柔和な相貌の水天は毛氈座に坐し、左右に侍者が併坐する。
ほんのりと淡紅のぼかしのかかった白い肉身は、
柔らかな淡い朱線につつまれ、
原色の対比をさけた明るい色調の着衣には彩色文様がほどこされ、
その上を金のヴェールをかけたような精巧な截金文様が映発し、
限りない安らぎをあたえる。院政期の貴族の趣向を反影しているという。
十二天の中で最も華やかな図で、平安仏画の色彩の美しさを代表するような仏画だ。
条帛には網文、裳には九ツ目菱入り変わり(四重)七宝繋文だけがある。彩色が華やかなので、截金はひかえたのだろうか。
 5 羅刹天
赤い内着には九ツ目菱入り変わり(四重)七宝繋文、腹部にぐるぐる巻いた紐には立涌文、裳には卍繋文、その裾には七宝繋文、足袋には円文繋ぎなど、截金の種類が多い。
また、截金ではないが、円座の足袋近くには赤い七宝繋文がみられる。
 6 閻魔天
条帛に網文、裳に九ツ目菱入り変わり(三重)七宝繋文、裳の折り返し部分に亀甲繋文、毛氈座の一番内側、羅刹天図と同じ箇所に七宝繋文の截金文様がある。
 7 火天
火天には最初からなかったか、剥落してしまったのだろうか、截金装飾は見られない。
右脇侍の裳に十字(四ツ目菱)入り七宝繋文、左脇侍の裳には卍繋文の截金がある。
 8 帝釈天
上着に四ツ目菱入り七宝繋文、内側の袖に卍繋文、条帛に四ツ目菱入り二重菱繋文、裳にも卍繋文、腰に結んだ紐に網文の截金がある。
 9 伊舎那天
条帛には四ツ目菱入り二重立涌文、裳には「米」形入り変わり(三重)七宝繋文、裳の上には脱いだ上着だろうか、卍繋文が截金で表される。
10 毘沙門天
一番目立つのが腹部の金色、これは金泥で鎧の模様を描いたもの、剣先文または毘沙門亀甲と呼ばれる文様。
上内着と裳に九ツ目菱入り七宝繋文、足袋に亀甲繋文の截金がある。
11 梵天
条帛に「米」形入り変わり(三重)七宝繋文、裳にも「米」形入り変わり(三重)七宝繋文の截金がある。地の色が異なると全く別物に見える。
12 地天
条帛に四ツ目菱入り二重立涌文、裳に「米」形入り変わり(三重)七宝繋文がある。
裳裾にも柿色地に花を表したように細く小さな線の集合体と、枠のような線がある。菊唐草文とでもいような文様が描線で表されている。
11世紀末とされる京都国立博物館蔵の釈迦金棺出現図では、菊唐草文は截金によるものだったが、12世紀前半のこの作品では描画となっている。
遠くからは立体的に見えた脚部だが、近寄ってみると平板さが目立ってくる。
月天の裳の部分でみると、截金の文様が、裳の凹みや盛り上がりを無視するかのように続いているからだ。
地天の裳部分でもっと拡大してみると、截金の文様が、腿側と膝下にわたって、途切れることなく続いていることがわかる。
照り隈という立体感をもたせる白っぽい部分をも無視して、全体が一つの面であるかのように、乱れることなく変わり七宝繋文が施されている。
さすがに主文の領域にまでは侵入していないが、これがいわゆる平安仏画なのだ。
『日本の美術373截金と彩色』は、截金・暈繝による文様表現は、仏像、仏画など仏菩薩等の諸尊が身に着ける着衣、甲冑などの織物や金工、皮革の文様を写すことに原点がある。
世俗の織物とは違った織物を表現し、より装飾を加え、荘厳(しょうごん)、厳飾(ごんしょく)を極める。その美意識に宗教的な作善、功徳の思いがあり、截金・暈繝などの文様表現が仏教美術と軌を一にして発展、展開したのもそこに理由がある。
本書では、とくに仏像、仏画において諸尊の着衣に表現された文様を、地文様と浮き出し文様とみて、前者を地文、後者を主文と呼ぶという。
応徳涅槃図や釈迦金棺出現図では地文截金、主文截金だったが、東寺旧蔵の十二天図では、地文截金・主文彩色となっていた。
それは、天平時代の仏像に行われていた荘厳法ではなかったか。
それについてはこちら

同書は、仏画における「地文截金・主文彩色」の組み合わせは仏像より遅く、平安後期12世紀に入って盛行を見た。この表現法はいわゆる「平安仏画」を特色づけ、また日本独自の装飾美をもっともよく発揮したものといえる。ちなみに、「地文截金・主文彩色」の表現法を使用した遺例は、現在、中国では知られていないという。
平安仏画は色彩が美しく、そこに繧繝や照り隈が入り込んで、前に立つと何時までも眺めていたいような雰囲気が漂っている。
平安時代だったら、灯りの炎がちらちらとゆらいで、暗い中でも截金がきらきらと煌めいたことだろう。

截金の文様については次回より

関連項目
辻飾り付き変わり格子文の截金
東寺旧蔵十二天図10 截金9円文
東寺旧蔵十二天図9 截金8石畳文
東寺旧蔵十二天図8 截金7菱繋文または斜格子文
東寺旧蔵十二天図7 截金6網文
東寺旧蔵十二天図6 截金5立涌文
東寺旧蔵十二天図5 截金4卍繋文
東寺旧蔵十二天図4 截金3亀甲繋文
東寺旧蔵十二天図3 截金2変わり七宝繋文
東寺旧蔵十二天図2 截金1七宝繋文
現存最古の仏画の截金は平等院鳳凰堂扉絵九品往生図
釈迦金棺出現図の截金
応徳涅槃図の截金
截金の起源は中国ではなかった
唐の截金2 敦煌莫高窟第328窟の菩薩像
唐の截金1 西安大安国寺出土の仏像
東大寺戒壇堂四天王立像に残る截金文様
国宝法隆寺金堂展には四天王像を見に行った
亀甲繋文はどこから
中国・山東省の仏像展で新発見の截金は

※参考文献
「日本の美術373 截金と彩色」 有賀祥高 1997年 至文堂
「日本の美術33 密教画」 石田尚豊 1969年 至文堂
「王朝の仏画と儀礼 善をつくし 美をつくす 展図録」 1998年 京都国立博物館