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忘れへんうちに 旅編に、中央アジア各地の旅に続いて、イランの旅を記載し始めました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2013/01/11

日本の仏涅槃図



昔々仏教美術を勉強していた頃、涅槃図は古い作品は足下側が見え、時代が下がると頭部側が見えるように描かれたと聞いた。以降、仏涅槃図を鑑賞する際の制作年代を判定する基準としてきた。
ところが、大和文華館で開催された「清雅なる仏画-白描図像が生み出す美の世界-」展で涅槃図が3点展観されていて、その3点とも足下側が見えるように描かれていた。最初の1点は鎌倉時代後期(14世紀)で、その頃には足下側ではなく頭部側が見えるように描かれたと記憶しているのにと不思議に思った。しかし、後の2点は南北朝時代(14世紀)にもかかわらず、やはり足下側が見えるように描かれていた。
同展図録は、本展覧会に出陳される3点の涅槃図は何れも、釈迦は両腕と身体を真っ直ぐに伸ばして横たわり、寝台は釈迦の足下の側面、すなわち画面向かって右側面を描き出すという、平安時代の涅槃図に見られる古様な図像を踏襲しているという。

涅槃図 絹本著色 鎌倉時代 14世紀 高山寺蔵
同展図録は、痩身に描かれた釈迦や、慟哭する会衆が穏やかな描線で表されるなど、鎌倉時代後半頃の制作を思わせるという。
何故美術様式は鎌倉後期なのに、構図は平安後期のものなのだろう。
涅槃図について『日本の美術268涅槃図』は、釈迦は29歳のとき出家し、まず山中に入って6年間苦行生活を送ったが、その空しさを知り、ボードガヤーの菩提樹の下で静かに瞑想をこらして、ついに前人未踏の悟りを開いた。以後40余年間、インド各地を巡歴して多くの人々を教化し、ヴァイシャーリー近くのヴェーヌ村に至って重い病にかかった。一説によると、この病はパーパー村の鍛冶屋の息子純陀の捧げた食事で中毒したのだという。病は一度回復したが、再び重くなり、クシナガラの熙連河のほとり、沙羅双樹の間で入滅した。涅槃図はこの場面を描いた図なのである。
全体に日本では仏伝美術(釈迦の伝記をテーマにした美術)はあまり発展しなかったが、それは日本の仏教がほとんど大乗仏教として受容されたことと関係があるらしく、仏伝美術は、釈迦の誕生を誕生釈迦と称して彫刻であらわし、釈迦の死を涅槃図と称して絵画であらわすことによって、仏伝を釈迦の生と死の二大事件で代表してしまった感がある。そして誕生仏と涅槃図は、日本で発展したすべての宗派が、寺の必需品として寺ごとに備え、誕生仏は4月8日の灌仏会の、涅槃図は2月15日の涅槃図の各本尊に用いたので、今日まで残る作品は両方とも多く、とくに涅槃図は現存する仏画のうちで、もっとも多いという。
涅槃図がそんなに多いものとは思わなかった。

第一形式
同書は、第一形式と呼ぶ古い形式は、応徳3年制作の和歌山金剛峯寺本を始めとする平安後期の作品、及びこの系統に属する鎌倉時代の作品をさし、次のような特色をもつ。まず、釈迦は両手を体側につける場合が多く、体を真っ直ぐ伸ばして寝台上に仰臥もしくは横臥する。そして釈迦をその足もとから見た構図、つまり寝台の向かって右側面を見せるように描く場合が多い。この形式の源流は唐時代の涅槃図にあるとみてよく、会衆の表現は、そのうちの仏弟子が一般に穏和で優美な姿に描かれ、唐画の日本化された経過がうかがわれるという。

涅槃図 応徳3年(1086) 和歌山金剛峯寺
『日本の美術268涅槃図』は、第一形式。日本に現存する涅槃図の最古の作品。釈迦は光背をつけず、両手を体側につけ、仰向けに横たわる。唐画をもとにしたのであろうが、その優美な姿は和様化の極地を示し、それに荘重な風韻が加わる。会衆の総数39、動物はシシ1頭のみ。沙羅双樹は4双8本。画面全体に清澄な趣が漂うという。
涅槃図 鎌倉中期(1224-1266) 奈良新薬師寺
同書は、釈迦は両手を体側につけて寝台に横たわり、目を半眼に開く。寝台周囲に集った会衆は、菩薩5・天4・仏弟子10・俗人4、動物はシシ・クジャク・ヒツジ・サル・トラがみえる。画面には静寂な雰囲気が漂い、第一形式の一つの特徴を示すという。 

第二形式
第二形式の涅槃図は、鎌倉時代になってあらわれたもので、第一形式と比べると、釈迦の姿は比較的小さく、周囲の会衆が多くなる。
第一形式では、例を仏弟子にとると、唐画に源をもつ古風な羅漢像に近い姿に描かれたのに対して、第二形式では、宋元の羅漢像に近い姿に描かれている。
釈迦の姿も、『仏般泥洹経』にあるとおり、右手枕し、右脇を下にして横たわり、両膝をまげて、両足を重ねる場合が多くなる。また、釈迦を頭の方から見た構図、つまり寝台の向かって左側面を見せるように描く例が多い点でも、第一形式とは対照的であるという。

涅槃図 鎌倉後期(1267-1333) 京都知恩寺
釈迦は右手枕し、両膝を曲げて横たわる。画面は横長で、悲嘆する多くの会衆のさまざまな姿を描き、枕もとの沙羅双樹からは瑞雲が盛んに昇り、足もとの沙羅双樹の葉は白変し、背後に熙連河が逆巻く。釈迦の両足に両手を触れるのは毘舎羅城の老女で、この老女は第二形式に多くあらわれるという。 
第二形式は動物の数が多い。
涅槃の場に集まった動物の名を記す40巻本『大般涅槃経』の説くところに必ずしも忠実であるわけではなく、宋元の涅槃図を手本にしてその種類を増しながら、一方で、日本に生息する身近な動物を加えて、次第にその数を増していったのであるという。 
動物の数が多いのは日本の涅槃図だけだと思っていたが、中国の涅槃図も動物が多く描かれるようになっていたのだ。

涅槃図 宋末期(13世紀後半) 京都長福寺
彩色には日本の涅槃図とは異なる白濁したような色調がある。寝台は向かって左側面を見せるように構図され、釈迦は蓮台を枕にし、右手を前に出す。足もとに坐るのは大迦葉であろう。この図は日本の第二形式涅槃図の発生に重要な地位を占めるという。
左下に迦陵頻伽(矢印)が登場する。迦陵頻伽については後日。
また、涅槃図にも信仰の違いが現れているようだ。
『日本の美術268涅槃図』は、鎌倉時代は、第一形式の涅槃図と、鎌倉時代になって新しく発生する宋画の影響を受けた第二形式の涅槃図が、徐々に交代する時期にあたる。前の平安後期の涅槃図が末法思想と固く結び、来世の幸福を願う浄土教信仰の一環として生まれたのに対して、それに代わるべく、奈良興福寺の僧で後に笠置寺に入った貞慶や、京都で華厳宗を復興した高山寺の明恵上人が、南都の僧たちとともに、とかく戒律を無視しがちな法然上人開宗の京都の浄土宗に対抗して、釈迦へ回帰する運動を興し、その一環として、新しい涅槃図に対する信仰を燃え上がらせたのであるという。

大和文華館で見た3幅の鎌倉後期の第一形式の涅槃図は、浄土宗系の寺に掛けられたものかというと、高山寺は真言宗なのでそうとも言えない。
京都高山寺の涅槃図や、京都清涼寺の涅槃図が、いずれも第一形式にきわめて近い涅槃図であるのを見ても、明恵上人による第二形式の涅槃図の導入によって、日本の涅槃図が一挙に第一形式から第二形式へ転換したものではないことが理解できるであろうという。

『清雅なる仏画展図録』は、天皇や貴族たちによる密教修法の盛行や、盛んな造寺造仏は、図像への高い関心を集めることとなった。自ずと僧侶たちには、修法の次第のみならず、高い図像の知識も求められるようになった。12世紀半ば頃から、仏の姿を記した図像集が編纂されるようになる。
経典や儀軌とは異なる点を知るために始まった図像研究が、図像を収集し解析することによって、結果として、経典や儀軌に縛られない図像の存在を際立たせ、そこに聖性を見出すようになったといえるのではないだろうかという。
宗派が異なっても、寺や僧侶の好みの図様を選ぶことができたということだろうか。

次回は敦煌莫高窟の涅槃図について

関連項目
応徳涅槃図の截金
クシャーン朝、ガンダーラの涅槃図浮彫
敦煌莫高窟17 大涅槃像が2体
中国の涅槃像には頭が右のものがある
キジル石窟は後壁に涅槃図がある
敦煌莫高窟16 最古の涅槃図は北周
敦煌莫高窟15 涅槃図は隋代が多い
新羅の誕生仏は右手をあげていない
統一新羅にも右手をあげた誕生仏があった
インドの誕生仏は
手をあげた誕生仏は中国にも

※参考文献
「清雅なる仏画-白描図像が生み出す美の世界展図録」 2012年 大和文華館
「日本の美術268 涅槃図」 中野玄三 1988年 至文堂
「絵は語る2 高野山仏涅槃図 大いなる死の造形」 泉武夫 1994年
「涅槃図の名作展図録」 1978年 京都国立博物館