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忘れへんうちに 旅編に、中央アジア各地の旅に続いて、イランの旅を記載し始めました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2012/11/13

第64回正倉院展3 今年は隋経



写経や正倉院古文書などの展示は一番最後と昔から決まっていて、昔はこの辺りまで来ると鑑賞する人の姿はまばらだった。見学の疲れと文字に対する興味のなさで通り過ぎる人が多かった。
しかし、近年はその様子が一変した。最後まで人だかりが絶えないので、ここを見て回るだけでも時間がかかるのだった。

今回もその周囲だけ空気が張りつめているような経典があった。それは前回驚いた唐経よりも古い、隋経だった。

賢劫経 巻第十一 (隋経) 大業3(607) 聖語蔵 
縦26.1 長693
『第64回正倉院展目録』は、聖語蔵に伝わる経巻のなかで「隋経」(隋時代の写経)と分類されるもの。聖語蔵とは、もと東大寺尊勝院の経蔵であった校倉造の蔵で、のちに宝庫東南に移設された。ここには五千巻に及ぶ経巻が納められている。
本巻は、幅50.3㎝前後の料紙を14紙継ぎ、朱頂軸を付す。淡墨で界線を引き(界高約19.4㎝、界幅1.8㎝)、経文を墨書する。1紙28行、1行17文字である。料紙は薄手で黄褐色を呈す。巻第二の料紙調査において、原料にコウゾを利用していることがわかっている。なお、巻第一には、大業3年(607)の奥書が確認出来る。
本品を含む聖語蔵隋経の『賢劫経』は十三巻まで確認され、巻立てが異なっているという。
大業といえばあの煬帝の使った年号だ。
ウィキペディアによると、第2回遣隋使として小野妹子が派遣された年でもある。遣隋使は推古8年(600)から推古26年(618)の18年間に5回以上派遣されているので、この間に日本に将来された写経かも知れない。小野妹子が持ち帰った可能性もあるのではないだろうか。
前回出陳された唐経と比べると全体に線が細いような印象を受ける。
諫王経 かんのうぎょう 光明皇后御願経 天平8年-天平勝宝8年(736-756) 聖語蔵
縦26.5長223.6
光明皇后が亡き父母(藤原不比等・橘三千代)のため書写させた一切経、「五月一日経」のうちの一巻。この書写事業は、玄昉が唐から請来したばかりの五千余巻を底本とし、 略
書写総数は七千巻に及んだと推定され、うち750巻が聖語蔵に伝わる。
本巻は、黄麻紙5紙を継ぎ、太手のシタン撥型軸を付す。淡墨で界線を引き(界高19.7㎝、界幅1.8㎝前後)、経文を墨書する。1紙幅は45.4㎝前後で、1紙24行、1行17字であるという。
前回も光明皇后御願経の一つ最無比経が出陳されていた。
玄昉は養老元年(717)に帰国することのなかった阿倍仲麻呂や井真成らと唐に渡り、天平7年(735)年に五千巻もの経典を携えて帰朝した。日本に請来されたばかりのその経典を手本として写経されたものの1巻がこの諫王経だ。
上の隋経とは100年以上後に写経されているので、字体もだいぶ違っているはず。
大乗悲芬陀利経 だいじょうひふんだりきょう 巻第4 称徳天皇勅願経 
天平勝宝8歳(756)に崩御した父、聖武天皇のために、称德天皇が書写させた一切経。巻尾に神護景雲2年(768)5月13日付の願文があり、『正倉院聖語蔵経典目録』において「神護景雲二年御願経」と分類される。内裏系統の写経所において、天平宝字2年(758)6月以前から書写が行われていたことが知られる。
本巻は、薄茶色の荼毘紙を用いた表紙に茶色の麻紙を29紙継ぎ、太手の赤密陀撥型軸を付す。淡墨で界線を引き(界高23.6㎝、界幅2.3㎝前後)、経文を墨書する。1紙幅は55.4㎝前後で、1紙24行、1行17字である。筆跡は太細の差が少なく、硬さと鋭さをもつ。文字は大ぶりで、紙数が進むとやや行書風のくずれが見られるようになるという。
遣唐使が持ち帰った経典を手本にしたので、新しく請来された経典によって日本の写経の字体が変わっていくという。
758年に最も近い遣唐使の帰国は天平勝宝6年(754)。その時の遣唐副使が吉備真備、あの鑑真を伴って帰朝している。
吉備真備も新しい経典を持ち帰ったのだろうか、それとも鑑真が持ってきたのだろうか。
手本がどの年に請来されたものか不明だが、この写経は、遠目にも分かるくらい太書きされている。そして、縦横がそろわず、どちらかと言えば横長だった奈良写経の字体とは異なり、縦長気味の文字が並んでいる。平安写経の先駆のようでもある。
写経や正倉院古文書が展示されているコーナーに、意外なものがあって驚いた。何の器械かと思ったら、書見台らしい。

紫檀金銀絵書几 したんきんぎんえのしょき (書見台) 南倉
巻子を広げて見るための書見台。向かってさ側の受けに巻子を載せ、受けに附属する細木の隙間を通して左から右へと繰り延べた紙面を、右側の受けに巻き取りながら見たと考えられる。方形の台座は四辺が僅かに内曲して対角線上に稜角を作り出し、 その上に蕪形の柱座を載せ、中央に七角形の柱が立つ。
近年の研究で、本品と近似する形態を持つ経巻を広げ見るための台が中国・敦煌莫高窟の盛唐期壁画中に少なからず見いだされ、これらが唐代の文献にしばしば登場する「経架」に相当するという注目すべき指摘がなされている。これを踏まえれば、本品は何らかの仏教儀式に用いられた可能性が考えられるだろうという。
「中国石窟 敦煌莫高窟」を調べてみたが、探し出せない。どのような場面で経架が描かれているのだろう。
柱頭の唐草を象った刳形上面に枘を設け、ここに小円形の受けを作り出した左右一対の腕木2本を取り付ける。受けにはスリットのある割り箸形の細木を立て、これに巻子を支える金銅製の鐶と、繰り広げた紙面を支えるため糸を張ったと思われる金銅小鐶が、それぞれ上下1箇ずつ付く。
一見して華奢な構造のため、日々の実用に耐えうるものであったとは考えがたいという。
下の写真が添えられていたので、本当にこのようにして勉強していたのかと思ってしまった。

関連項目
第63回正倉院展6 唐の写経と奈良写経
鑑真さんと戒壇院

※参考文献
「第64回正倉院展目録」 奈良国立博物館 2012年 財団法人仏教美術協会