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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2012/10/02

敦煌でソグド人の末裔に出会った



今回、敦煌での現地ガイドは史東華という人だった。
歴史の「史」です。「しさん」とか「しいさん」と呼ばれます。どちらでも構いません

一日目の見学が終わり、ホテルに入ってふと気が付いた。
「史」という姓は、安史の乱の「史」、つまり史思明と名字が同じ。ということは、もういないのではないかと言われているソグド人の末裔に出会ったことになる。

翌日、そのことを尋ねてみると、
そうです。中国語では口口といってソグドという言葉に似た発音です。お爺さんの時代に、陝西省の史家村という所から、集団で敦煌に移住してきました
史さんは何族ですか?
漢族です。でも祖先に西の方から来た人がいます

ソグド人とは、現在の中央アジア、ソグディアナ(ウズベキスタンとタジキスタンの一部)出身のイラン系の民族。ちょっとそんな血が流れていそうな顔立ち。
実は私は中国人には見られません。日本人でしょとか、外国人に間違えられます
今となっては、中国語で何というのか、文字で書いてもらえば良かった。
『文明の道③海と陸のシルクロード』は、玄奘はスイアブから鉄門までを窣利(ソグド)だと呼んでいるという。
この「窣利」の中国語読みが、史さんが教えてくれた言葉だったのだろう。

同書は、ザラフシャン川に沿って、中流のサマルカンドや下流のブハラ(ともに現在のウズベキスタン)など、小さな都市国家が点在し、その一つひとつが、ソグド人の独立した国だった。
「オアシス都市国家では人びとがひしめき合って暮らしていた。そのための知恵が、都市や建造物の構造から読み取れます。そして、この小さな世界から外に目を向けることで、ソグド人たちはユーラシアの全域を視野に入れた交易の民となっていったのです。

ソグドの人びとは、強い国家というものを持ちませんでした。だから、交易の民として広い世界を目指して出て行き、中央アジアから、中国にまで到達していたのです」(エルミタージュ美術館のボリス・マルシャーク博士)。
「商業を目的に中国にやってきた多くのソグド人たちが、交易に便利な場所を選んで集落を築き、定住していたことが明らかになってきたのです」(北京大学歴史系教授の栄新江教授)。

中国に暮らしたソグド人は、出身地別に、昭武姓と呼ばれる固有の姓を名乗る習慣があったという。

安禄山の「安」はブハラ、史思明の「史」はキシュ出身のソグド人ということになる。ブハラの街は今でもあるが、キシュは、後世のティムールの出身地シャフリサブス辺りとされている。
しかし、安史の乱以降、ソグド人たちは中国に留まることができたのだろうか。

同書は、乱の収束後、唐の国内では、ソグド弾圧の嵐が吹き荒れた。当時の記録は伝える。
「胡面の人間がことごとく誅された。胡人を殺した者には重賞を与える」
国家の外交・通商政策を、さまざまな形で影から動かしてきたソグド人たちに対する評価は、以前からあまり芳しいものではなかった。権力の頂点に立とうという野望まで抱いて、それが破れたとき、彼らに向けられた反感の刃は凄まじいものだった。
弾圧を受けたソグド人たちは、唐のなかで、あるいは北方の新興遊牧民国家ウイグルに逃亡して、それぞれの社会のなかに隠れ入るように溶け込んでいくことを図ったという。 
そんな風にソグド人が正体を隠して暮らしても、まず風貌で目立っただろうし、次に昭武姓で気づかれたりしたのではなかっただろうか。
しかし、現実に中国で暮らしてきたソグド人の末裔に出会った訳だから、弾圧は長々とは続かなかったのだろう。

ソグド人は唐時代以前すでに中国に来ていた。

商談図(拓本) 石製 北斉(550-577) 高135㎝幅98㎝ 山東省清州市傳家村出土 清州市博物館蔵
『中国★美の十字路展図録』は、石板に線刻された画像は、囲屏もしくは石槨を構成していたものと推測される。頭に折上巾をつけた墓主と思われる人物が、筌蹄に坐して左手に杯を持ち、前に立つ胡人と対飲している。髪の毛がカールした胡人は胡服独特の派手な飾りの服を着、腰をかがめて相手の機嫌をうかがうかのようであり、奧に控えた人物がもつ珊瑚は献上品であろう。おそらくソグド人であるという。

ソグド人は敦煌莫高窟の壁画に表されていた。

第45窟南壁西側 盛唐期(712-781年)
『敦煌石窟 精選50窟鑑賞ガイド』は、本窟では、南壁の『法華経』「観音普門品」もよく知られる。壁画中央に描かれた観音菩薩の複雑に装飾された天蓋、華麗な瓔珞などは、当時の人々の篤い信仰心を反映している。その両側には観音菩薩の三十三応身と諸難救済(山間で盗賊に襲われる商人、大海中で羅刹鬼に遭遇する船、あるいは牢屋に陥れられる囚人などのように、諸難に遭ったとき、観音の名を念ずれば、これらの難から逃れられるという内容)の壁画が描かれているという。
この壁画を最初に見た時は、人物ではなく、右端の妙な建物が気になった。それは高昌故城に残るイラン様式の講堂によく似ていたからだった。
しかし、大きな違いは、乾燥しているトルファン郊外では版築で造られているのに対し、この図は草や灌木の枝を使っているらしく、建物の端には植物の茎または枝のようなものが突き出ている。
この点についてはこちら
脱線してしまった。ソグド人の話だった。
『文明の道3』は、ソグド人たちは、中国の町の中に植民集落を築き、中国の社会に入り込んで暮らしていた。実はこれが、彼らの交易戦略の第一歩だった。
中国社会に入り込みながら、ソグド人たちは絹の交易に手をそめていった。
ソグド人たちは、絹を持って西への道をたどった。敦煌から発見されたソグド人の交易の姿を描いたとされる壁画も、絹の反物を持った数人の商人がまさに山賊に襲われている様子を写している
という。

ソグド人の中には髭を生やした者が多く、それだけで胡人だとわかる。1人を除いて布製と思われる帽子を被っているが、盗賊の漢族の被る帽子とは異なっている。
容貌は、漢族よりも目鼻立ちがはっきりと表されている。
ゾロアスター教徒だったはずのソグド人も、シルクロードの往来の安全を願って、仏教に帰依するようになったのだろうか。
ソグド人はどのような顔立ちだったのか、最もよくわかるのがこの俑だろう。

ソグド人の彩色俑 陝西省礼泉張士貴墓出土 唐時代 高さ24㎝ 陝西省博物館蔵
何となく史さんに似ているような。
史さんのお爺さんの代まで住んでいたという陝西省の史家村は、グーグルアースで探し出せなかったが、「口家村」というのはたくさんあった。それぞれが同じ姓の植民集落なのだろう。

※参考文献
NHKスペシャル「文明の道3 陸と海のシルクロード」 NHK「文明の道」プロジェクト 2003年 日本放送協会
「中国 美の十字路展図録」 2005年 大広
「中国石窟 敦煌莫高窟3」 1987年 文物出版社
「図説中国文明史6 隋唐 開かれた文明」 稲畑耕一郎監修 劉煒編 2006年 創元社
「敦煌石窟 精選50窟鑑賞ガイド 莫高窟・楡林窟・西千仏洞」 樊錦詩・劉永増 2003年 文化出版局