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忘れへんうちに 旅編に、中央アジア各地の旅に続いて、イランの旅を記載し始めました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2012/02/03

ヘラクレスの棍棒が涙の柱に

ヘラクレスは必ず棍棒を持っている。
ネムルート山東のテラスでは、頭部が地震で崩れ落ちても、左手に持った棍棒は残っていた。
西のテラスでは、神々の石像と並んでヘラクレスーアルタグネス-アレスはアンティオコスⅠと右手で握手をし、左手は棍棒を上向きに持っていた。
いつからヘラクレスが棍棒を持って表されていたかはわからないが、数年前に京都ギリシアローマ美術館でギリシア陶器を見た時にもヘラクレスが棍棒を持っていた。

黒絵式レキュトス(香油入れ) ギリシア、アッティカ式 ライオン狩りのヘラクレス 前490-480年 高30.6㎝ アテナーボードウィンの画家の作品 京都ギリシアローマ美術館蔵
同館図録は、ライオンは穴から出てうなり声を上げ、子鹿に一撃。棍棒を肩にしたヘラクレスは一瞬振り返って、アテナを見ます。劇作家アイスキュロスはサテュロス劇『レオン』にヘラクレスのネメアへの冒険物語を上演。この香油壺は画家がアイスキュロスに感動して、劇場の一場面を描いた唯一の作品ですという。
前5世紀にはすでにヘラクレスは棍棒を持っている。
このレキュトスを見た時、イスタンブールで見た涙の柱の起源はヘラクレスの棍棒ではないかと思ったのだった。
イスタンブールの涙の柱は、考古学博物館の中庭にあった。
しかし、最初に見たのはイエレバタン貯水池 Yerebatan Sarniciだった。

『イスタンブールが面白い』は、イェレバタン通りの下に縦141m、横73mの空間が、高さ8m、12列各28本、計336本の大理石柱に支えられて横たわっている。
532年、ユスティニアヌス帝のとき、以前の小さい貯水池を改築する形で完成された。宮殿に水を供給し、外敵に備えるためであった。
立派な石材を使っているように見えるが、多くは遺跡からの部品を流用したリフォームである。
涙の柱と呼ばれる支柱。貯水池建設のため異教の神殿から運ばれたものらしい。オルドゥ通りの南側歩道に同じ紋様の柱がおかれているという。
イエレバタンで最も有名なのは、なんと言っても横や逆さになったメドゥーサの顔が支柱の台座に使われていることだが、メドゥーサの頭部も涙の柱も、キリスト教からみれば異教の神殿にあったものだ。
17年前にイスタンブールに来た時、ガイドのアティラさんは、早く造るために、いらなくなった所の柱でも何でも、運んで来ました。アヤソフィアの円柱も、エフェソスのアルテミス神殿から運んだものですと言っていたのを思い出す。
そしてその後、「アレクサンドロス大王と東西文明の交流展」で棍棒を下ろしたヘラクレス像を見て確信した。涙の円柱の起源はヘラクレスの棍棒だと。

ヘラクレス立像 イラク、ハトラ出土 石灰岩 高88.0㎝ アルサケス朝時代 2~3世紀 東京国立博物館像
同展図録は、頭にディアデマ(冠帯)を巻く。右手に棍棒を提げ、左手には鉢を持ち、また「メネアのライオン」の毛皮をぶら下げている。
この像が出土したイラク北部のハトラは、アルサケス朝パルティア帝国の対ローマ軍事都市、シルクロードの隊商都市として1~3世紀に隆盛をきわめた。ここはメソポタミア的要素のほかに、イラン世界から地中海世界に至る様々な建築・美術が集まり、東西の文化的交渉を物語っているという。
黒絵式レキュトスがライオンを狩る直前のヘラクレス、この立像がライオンをやっつけてその皮を剝ぎ、酒杯を手にするヘラクレスで、物語は完結する。
イエレバタンの涙の柱は、ヘラクレス神殿から持ち出されたものだったのかも。

※参考文献
「コンマゲネ王国ネムルート」(2010年 A Tourism Yayinlari)
「ギリシアローマ美術」(1996年 京都ギリシアローマ美術館)