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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2010/11/05

唐三彩には繧繝はあるか 


西大寺出土の三彩垂木先瓦は繧繝彩色を目指したように思える。唐三彩に繧繝やそれに繋がるような技法はあったのだろうか。


三彩貼花文鍑 陶製 高18.0 中国、唐(8世紀) 東京出光美術館蔵
大遣唐使展図録』は、「鍑(ふく)」とは本来、脚付きの鍋を指す名称で、中国古代の銅器に慣用されている。唐三彩では、主に短頸で丸底の壺に3本の獣脚を付けたものをこの名で呼んでいる。
胴部の地には緑釉、口縁部に褐釉をそれぞれ単色で塗り、貼花の上にだけ緑色・褐色・白色の3色をまだらに転じているという。
青銅の鍑について調べたことがあるので、このように丸く口のすぼんだ器形を鍑と言われても、別の名称にしてくれと思ってしまう。鍑についてはこちら
どちらかというと、唐三彩の色づけはこのように大まかなものが多い。貼花が何を表しているかが分かるような色の付け方というよりも、緑色・褐色・白色の3色を適当に筆で置いて行ったようで、しかも焼成中に釉薬が流れてよけいに何かわからくなっている。
繧繝とはほど遠いなあ。
唐三彩は日本には割合早い頃に入っていた。

三彩蓋付滴足円面硯(蓋部分のみ) 飛鳥時代(7世紀中葉前後の終末期古墳) 斑鳩町竜田御坊山3号墳出土 最大径6.75㎝ 橿原考古学研究所附属博物館蔵
『大唐皇帝陵展図録』は、ややクリーム色がかった白い硬陶質の器壁に、透明度の高い淡い緑色の釉を全面にかけ、その上に筆先などを使って濃緑色の釉を部分的にかけている。釉薬の一部はアルカリ成分が不透明化してしまい、銀化して不透明化している。
このような淡い色の上に同色の濃い色の点で模様を描く三彩は、河南省黄冶窯跡や江蘇省揚州城跡など、近年の中国国内での発掘調査でも出土している。御坊山3号墳の築造時期が初唐に含まれることから、濃淡2色の緑釉を用いた装飾法も初唐に遡る技法であるとわかるという。
同色の濃淡で何を表現しようとしたのかがわからない。墨流し(マーブル文様)のようなものをねらったのだろうか。
淡い緑色の上に濃緑色釉を置くという初唐(7世紀)からある技法が、西大寺出土の軒垂木先瓦(8世紀後半)の蓮弁に繋がるのだろうか。
8世紀の唐三彩で繧繝彩色に見えるものは日本では出土していないようだ。

唐三彩枕 奈良時代(8世紀) 奈良市大安寺旧境内出土 奈良文化財研究所蔵
1966年に講堂南面地域(前庭)の発掘調査で、延喜11年(911)の講堂の焼失によると考えられる焼土灰層から一括で出土したものである。これほど大量の唐三彩陶枕が大安寺で使用されていたのは、数多くの渡来僧や帰国僧が居住していたこととかかわりがあろうという。
一部の破片は文様の輪郭を陰刻し、それが色が施釉時の輪郭となって隣と混ざらない工夫をしているようだ。
それ以外は点描のように3色を置いていき、それらが溶けてぼんやりと混ざり合っている。同色の濃淡というのは見られない。どうも繧繝文様として施釉された唐三彩はなかったようだ。
ところで、唐三彩が明器(副葬品)として作られたものなら、何故それが日本に入ってきたのだろう。

『まぼろしの唐代精華展図録』は、唐三彩の多くは墓の副葬品として出土している。これは、先に示した唐三彩出土地点317か所でも279か所(88%)が墓であることからも分かる。このことから、かつては、唐三彩を明器専用のものと考える傾向もあった。
しかし、近年の発掘調査では、長安城大明宮含元殿遺跡、洛陽城皇城などの宮殿、長安城大明宮太液池遺跡、洛陽城九州池遺跡や上陽宮苑池遺跡などの宮殿苑池、長安青龍寺跡、揚州市師範学院寺院跡などの寺院、長安城西市跡や揚州城内などからも唐三彩は出土している。このため、唐三彩は、仏具や明器としても使用される一方、皇族・貴族・商人などの富裕層が使う高級実用品であったと考えられるようになってきたという。
唐三彩は副葬品として作られただけではなかったのだ。三彩蓋付滴足円面硯(硯部分も残っている)も唐枕も、実用品として日本にもたらされたものだったのだ。

※参考文献
「平城遷都1300年記念 大遣唐使展図録」(2010年 奈良国立博物館他)
「平城遷都1300年記念春季特別展 大唐皇帝陵展図録」(2010年 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館
「まぼろしの唐代精華-黄冶唐三彩窯の考古新発見-展図録」(2008年 飛鳥資料館)