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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2009/09/04

亀甲繋文と七宝繋文の最古はインダス文明?

 
首飾りをいろいろ見ていて亀甲繋文に出くわした。しかも、現在までに見つけた亀甲繋文の最古は、エジプト新王国第19王朝ラメセスⅡ世期(13世紀)のネフェルタリ王妃墓壁画に描かれたものだったが、今回見つけたものはそれよりずっと遡るものだった。

ビーズ装身具 イラン、ケルマーン州シャハダード出土 紅玉髄 インダス文明(前3千年紀) イラン国立博物館蔵
『ペルシャ文明展』は、紅玉髄(カーネリアン)の平型方形ビーズ20珠。それぞれの珠には、小円を加えた亀甲様の幾何学文様が丁寧に施されている。原石の産地はインド亜大陸(ラージャスターン?)で、実験によれば、施文法はある種の植物から作られる薬液によって腐蝕させたものであり、インダス文明に特有の技法とされているという。
赤い色が鮮やかで、風化していないので、現代からすると4000~5000年も前に作られたものとは思えない。実はそんなにネフェルタリの墓よりも古いとは思ってもみなかった。  タイル モヘンジョダロ出土 テラコッタ 17.0X-X2.0 インダス文明期(前2600-1800年頃) カラチ国立博物館蔵
『インダス文明展図録』は、家屋の部屋の多くは土間であったが、一部には十字文や交差円文を施したタイルが敷きつめられ、生活に彩りを添えていた。あらかじめ円形に固定した縄を繰り返し押しつけるという、手の込んだ手法で作られているという。
この時代にテラコッタでタイルが作られ。それが宮殿や神殿ではなく、家屋に敷きつめられていたとは驚く。 タイル カーリーバンガン出土 テラコッタ 21.5X16.0X2.5 インダス文明期(前2600-1800年頃) インド考古局蔵
この十字文は繋がっているらしい。これを見ていると、十字文から四弁花文になっていきそうな気がするなあ。亀甲繋文、七宝繋文そして十字文、あるいは四弁花文はインダス文明期にすでに成立していたのだ。
このようなタイルは1つがどの程度の大きさだったのだろう。そう言えば、「アッシリア大文明展」でかなり大きな床面の石製浮彫を見たなあ。もっと花弁の多い七宝繋文状の文様が一面に広がっていたような。

石の絨毯 前645-640年頃 クユンジク、北西宮殿I室b出入口ないしはd出入口 縦127.0横124.0厚7.5 大英博蔵  
『アッシリア大文明展図録』 は、これはアッシュールバニパル(前668-631年頃)の玉座の間から出土した敷居の一部分である。アッシリアの王宮の床には、鮮やかな色彩の織物が敷かれていた。一方、出入口付近には、このように敷物に似せて作った丈夫な「絨毯」が置かれた。矩形の内側には、コンパスを使って描かれた多数の円文が組み合わされ、あたかも六弁開花文が描かれているかのような効果を発揮している。その周囲をロゼット文が取り巻き、最も外側の部分には、ロータス(蓮)の花と蕾が連なって縁飾りを形成している。このロータスのモチーフはエジプトから、フェニキアを経由してアッシリアにもたらされた。そして紀元前8世紀末頃までには、アッシリアにおいても、一般に普及した。フェニキアの織物はアッシリアに輸入されていたので、この石製絨毯のデザインも、そのような織物に由来すると考えられるという。
クユンジクはニネヴェの現代名である。
六弁花文とも見えるが、もっと小さく、縦に花弁状の文様のある七宝繋文にも見える。それはエジプト第21王朝(前1086~935年頃)の木棺内側に描かれた女神の衣服にも似ている。こちらは色の異なる八弁花文、あるいは七宝繋文となっている。インダス文明の頃にすでにあった七宝繋文が、近くのメソポタミアを通り越してエジプトに伝播したとは考えにくいが、アッシリアの石の絨毯の場合は、エジプトからフェニキアへ伝わったものがアッシリアに輸入されたというのは納得できる。
しかし、インダス文明期の七宝繋文をエジプトに伝えたのも、ひょっとするとフェニキア、あるいは東地中海沿岸の交易の民だったかも。

※参考文献
「世界四大文明 インダス文明展図録」(2000年 NHK)
「ペルシャ文明展 煌めく7000年の至宝展図録」(2006-2007年 朝日新聞社)
「アッシリア大文明展図録」(1996年 朝日新聞社)