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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2008/07/10

如来の着衣が袈裟というのも


南山三陵渓の如来坐像は首がないだけでなく、僧の着る袈裟のような着衣で気になっていた。如来ではなく、高僧の像ではないかとさえ考えた。また、袈裟の紐の表現は丁寧だが、石窟庵の如来坐像と比べると膝の表現が人体ではないようだ。 背中はこのようになっていて、すっきりとはしているのだが、実際にこのように着ることができるのだろうか。その後行った茸長寺跡にある如来坐像は、説明板は、弥勒丈六像と推定される石仏坐像で、彫刻の様式から見て8世紀中頃のものというが、この像も袈裟のような着衣だった。 こちらは三陵渓の如来坐像に比べると首が太いので頭部が大きそうだ。こちらは結跏趺坐した両膝がはっきりと表され、衣端の表現は全く異なるものの、石窟庵の如来坐像に近い。 私はどちらも高僧像だろうと思っていた。ところが『世界美術大全集東洋編4隋・唐』には初唐時代の袈裟のような着衣の如来坐像が複数あったのだ。

五尊仏坐像の中尊 唐・貞観15年(641) 河南省洛陽市、龍門石窟賓陽南洞  
『世界美術大全集東洋編4隋・唐』は、魏王泰が亡くなった母の文徳皇后を追慕して奧壁に五尊像を彫り出した。中尊は高さが8m余りあり、方形宣字形台座に結跏趺坐している。衣は僧祇支(下掛)、大衣(袈裟)、偏衫(覆肩衣)をつけて、大衣の端を左肩から下がったつり紐に結んでいる。像は四角張った顔、円筒形の首、方形の厚板のような胴体、平たい台のような膝など、隋様式特有のブロック状の造形表現がなお顕著である。しかし手の表現はやわらかいという。確かにこなれない表現で、唐時代のものと思えない。趙王福造阿弥陀仏坐像 唐・顕慶3年(658) 山東省済南市、神通寺千仏崖
両膝が出ているが、結跏趺坐したとは思えない表現である。
賓陽南洞と山東は意外と密接な関係にあった。山東省済南の南郊外にある神通寺千仏崖には、  ・・略・・  「趙王福造阿弥陀仏坐像」などがある。これら造像主のうち、清州刺史として赴任した趙王福は太宗の第13子  ・・略・・  これらの仏像はいずれも大衣の端を紐でつっているのはもちろん、四角張った顔、肩の張った胴体が共通して同一の様式系統を示すとともに、趙王福造像はいっそう丸みを帯び、進んだ様式を示しているという。
このように、袈裟を着た如来像は初唐期(618-704)にあった。それも朝鮮半島に近い山東省に複数あるので、この様式が新羅に伝わった可能性はある。しかし、山東省と南山の造像時期には100年くらいの開きがあるのはどうしてだろうか。その間の像が残っていないだけだろうか。

※参考文献
「世界美術大全集東洋編4隋・唐」(1997年 小学館)