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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2008/06/04

新羅時代の石仏には驚いた

館内展示の石造仏像には統一以前のものがあった。

石造弥勒三尊仏 慶州南山長倉谷 新羅(7世紀中葉) 中尊160.0㎝  国立慶州博物館蔵
国立慶州博物館図録によると、1925年慶州南山の北側の峯にあたる長倉谷の石室から移したもので、口もとにただよう天真爛漫な微笑が故に”童子仏”とも呼ばれている。
この仏像は稚児のような顔と身体、ふっくらとした弾力的な面相などから中国北斉および隋代彫刻を映しているが、花崗岩という堅固な石質にもかかわらず、おだやかで柔和に表現されたその造形性は新羅時代特有の様式を示している。これらの様式的な特徴は、慶州拝里三体石仏のそれと直結することができる。
弥勒は菩薩像にも如来像にも表現される。如来はこの長倉谷の石仏のように椅子に座っている姿が原則であるが、韓国ではよく施無畏与願の手印をした如来像に表現されるために、その区別は難しい
という。
『世界美術大全集10高句麗・百済・新羅・高麗』で姜友邦氏は、新羅の善徳女王代の644年、慶州南山の三花嶺にこの弥勒仏を奉安するために、生義寺を建てたと『三国遺事』に記録されており、制作年代がわかる。中国の場合、椅子に腰かける如来倚像は、かならず弥勒仏で間違いない。顔と手が大きく、強く丸味を帯び、手印は通印をとっており、側面から見ると体部が突出していない。両脇侍は手にそれぞれ蓮の花をもち、微妙な三曲姿勢をとっている。三国時代、新羅の代表的な石仏といえるという。
私はものすごい勘違いをしていた。金銅仏が統一新羅になると頭部が大きくなるが、石造の仏像も同じだと思っていたので、この三尊仏は時代の下がったものだと思いこみ、前を足早に通り過ぎたのだった。 南山拝洞三体石仏 新羅(7世紀国山東省中葉) 
『慶州で2000年を歩く』で武井氏は、慶州で最も古いとされる石仏。新羅の統一以前につくられた。うっすら微笑んでいるような表情、童顔、頭と体のバランスがまるで子どものように見えるところが三国統一前の特徴である。また正面しか意識していないつくり方も特徴とされる。奈良の法隆寺にある釈迦三尊像なども同じである。もともと微笑んだ表情が印象的で有名だったが、最近、雨を防ぐために屋根がかけられてしまい表情がよくわからなくなってしまったという。あまりにもずんぐりしているので、三陵からそんなに遠くなかったが、見に行かなかった。先ほどの三尊仏同様、新羅時代の仏像が私にとってこんなに違和感のあるものとは。 軍威三尊石窟 慶尚北道軍威郡 新羅(7世紀中葉)
如来は頭部が大きいが童子形ではない。上の南山拝洞三体石仏の表情がよくわからないが、似ているような気もする。頭部に比べて身体の表現、特に足が平板だ。
姜氏によると、高句麗と百済の王室では、372年と384年に仏教が伝来し、新羅の王室は528年に仏教を公認したと記録にあることから、新羅の仏教受容は遅れたとみる傾向が一般的である。  ・・略・・  
大まかにいえば、三国で本格的な仏教寺院が造営されるのは、6世紀に入ってからと見てよかろう。三国においては、中国の北魏様式、東魏様式、北斉様式、隋様式を継続的に受容しており、三国の仏像様式の変化は中国の様式変化とほぼ並行している。しかし、民族性と風土性により、独特の様式を確立してもいる
という。では、これらより以前の三国時代の仏像はどんなものだったのか。

瑞山磨崖三尊仏像 忠清南道瑞山郡 百済(7世紀前半)
姜氏は、伽倻山渓谷に高くそびえる岩石の東面に、この三尊仏は彫刻されている。高さ2.8mの中尊像、高さ1.7mの右脇侍の捧持宝珠観音菩薩像と1.66mの左脇侍の思惟半跏像は、百済の高い石彫技術を示している。この三尊仏には、初期の百済・新羅・高麗仏に見られる生硬さが感じられず、顔相や手には生動感があふれ、衣襞はやわらかく、顔には微笑が漂っている。百済石彫美術の絶頂を示すのみならず、韓国彫刻史における代表的な作品である。中尊は東魏から北斉の様式を、また捧持宝珠観音菩薩は隋様式を帯びており、7世紀前半の作と考えられるという。
泰安磨崖三尊仏立像 忠清南道泰安郡 百済(6世紀末)
姜氏は、中央の菩薩像の左右には、如来像が脇侍として彫られており、特異な図像の三尊形式をとっている。菩薩は奈良の法隆寺夢殿の観音菩薩立像のように、両手を胸前で合わせて宝珠を捧持しており、比較的大きな宝冠を被っている。このような形式の菩薩は、中国の南北朝時代に例があり、百済でも金銅仏と石仏に例が見られる。このような図像の菩薩は、一般的に観音菩薩と考えられる。中央の菩薩の右側には、雄渾な体格の如来像が立ち、その顔と身体は量感に富んでいる。素髪の頭には小さな肉髻が盛り上がり、両肩は強く張り、通肩衣の衣装は隆起帯で表されている。尊名は阿弥陀如来と推定される。菩薩の左側には、同一様式の如来立像がおり、左手は胸前で円形の小盒を捧持している。この持物から薬師如来であることがわかり、三国時代の石仏としては唯一の例となる。この三尊仏は隋様式を反映しており、造像年代は6世紀末と推定されているという。かなり風化が激しいので、容貌は丸顔としか言えないが、上の仏像よりも頭部が小さく、バランスがとれている。
仏倚像 金銅製 北斉時代(551-580) 1983年博興県崇徳村龍華寺遺跡出土 博興県博物館蔵
『中国・山東省の仏像展』図録によると、低めの肉髻をもち、耳朶が貫通した長い耳を持った顔は丸く、頬から小さな顎へ向けて微妙な肉付けを見せており、やや吊り上がった眉と、遠くを見るように見開いた目が明るい表情を感じさせる。大きく開いた上半身は細かな肉体の起伏はないものの、張りがあり、青年のような印象をたたえている。右膝の大衣に刻まれた波打つ衣文は、自然な立体感をもっており、左膝を覆う裳には衣文を表していないという。
博興県博物館蔵仏倚像は、丸顔という共通点はあるが、硬い石を彫るのと、鋳造とでは作風が異なる場合があるので参考まで。
飛鳥・白鳳時代の仏像が中国から直接入った様式ではなく、半島経由のもの(中国ではすで流行遅れとなった様式)とずっと思ってきた。金銅仏は多少は知っているが、石仏は実際にどんな作品があるのかよくわからなかったので、今回はそれを知る良い機会となった。
石仏を見る限り、日本に渡ってきた様式とは違うことがわかった。記録でも金銅仏が将来されている。石仏と金銅仏は同じ時期に製作されても、かなり造像様式が異なったのだ。

※参考文献
「国立慶州博物館図録」(1996年 世光印刷公社)
「世界美術大全集10 高句麗・百済・新羅・高麗」(1998年 小学館)
「慶州で2000年を歩く」(武井一 2003年 桐書房)
「中国・山東省の仏像-飛鳥仏の面影展図録」(2007年 MIHO MUSEUM)