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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2014/03/28

イラクリオン考古博物館5 ミノア時代の建物の手がかり


ミノア時代の神殿がどのようなものだったかは、山上の祠堂のリュトンなどからある程度知ることができる。

山上の祠堂のリュトン 前1450年頃 ザクロ宮殿出土
切石積みだったこと、牡牛の角が軒の上に飾られていたことなどが明らかだ。
その想像復元図
円柱があるのかどうかはわからない。槍のように突き出たものが4本ある。


しかし、ミノア時代には宮殿や神殿だけでなく、家屋を知る出土品がある。

ハトの乗る三円柱の祠堂 古宮殿時代、前1900-1700年頃 テラコッタ イラクリオン考古博物館蔵
円柱の上に四角形の柱頭、更に2本の丸太状のもの、そして鳥が乗っている。
長い首を背中にのせているのはガンカモ科のような水鳥に見える。
牡牛の角が載せられるのは新宮殿時代からで、それ以前は鳥という、強さの感じられない生き物を載せていた。
空を飛ぶことに憧れていたのだろうか。

もっと不思議なものが展示されていた。

家屋の正面の装飾板 新宮殿時代、前1600-1500年頃 ファイアンス クノッソス宮殿出土 イラクリオン考古博物館蔵
同博物館の説明板は、ミノアの町の二階建てまたは三階建ての家の正面を表した「タウン・モザイク」。ドア、窓、階段、屋根を表している。木製のタンスの象嵌に使われた可能性があるという。
当時民家でも二階建てや三階建ての家があったこと自体驚きだが、それを装飾のモティーフとしたこと、そしてファイアンスで作ったことなど、一体どんな人々が暮らしていたのだろう。
どれ一つ同じものはない。
そして色も鮮やか。ファイアンスの板に着彩していたのだろうが。

立体的なものもあった。

家の模型 新宮殿時代、前1600年頃 粘土 アルカネス出土
『HERAKLEION ARCHAEOLOGICAL MUSEUM』は、二階建てのレンガの家の模型。建物の詳細がわかるという。
確かに壁面にはレンガを積んだような線が刻まれている。日干レンガかな、それとも焼成レンガかな。
2階にはバルコニーまであって、くつろぐ場所と時間のある優雅な生活が想像できる。
丸太4本がバルコニーを支えている。総レンガ造りでは、平天井は架けることが不可能で、ヴォールト天井となるのだが、木の梁ならば平天井をつくることができる。
レンガ造りなら、小さな窓もあけられるだろう。
1階の右端が出入り口だったようだ。左手の腰壁になっている開口部には円柱がありそうだ。
考古博物館の説明板は、1階に中央に円柱のある居間、その右壁には両開きの扉があるというが、この3つずつの穴が縦に並んだもののことかな。
その裏側。
円柱はクノッソス宮殿のように下が細くなっていたかどうかまでは、この模型では確認できない。
柱はおおむね建物の枠に沿って立てられ、屋根(後補らしい)の形に沿って、床部分にも立てられている。

イラクリオン考古博物館4 水晶製のリュトン
     →イラクリオン考古博物館6 ミノア時代のファイアンスはすごい

関連項目
イラクリオン考古博物館1 壁画の縁の文様
イラクリオン考古博物館2 女性像
イラクリオン考古博物館3 粒金細工
イラクリオン考古博物館7 クレタの陶器にはびっくり
イラクリオン考古博物館8 双斧って何?

※参考文献
「世界美術大全集3 エーゲ海とギリシア・アルカイック」 1997年 小学館
「HERAKLEION ARCHAEOLOGICAL MUSEUM」 ANDONIS VASILAKIS EΚΛΟΣEΙΣ ADAM EDITIONS

2014/03/25

イラクリオン考古博物館4 水晶製のリュトン


かなり以前にテレビ番組で、クレタ島でミノア時代の透明なアンフォラ型容器を見かけた。その時代に透明ガラスがあったのかという疑問と共に、その容器が記憶に残っていた。
その後それが水晶製であること、イラクリオン考古博物館に収蔵されていることなどを知った。
ということで、当考古博物館で私が最も見たかったものの一つは、この水晶製アンフォラだった。

水晶製リュトン 前1500-1450年 クレタ島、ザクロ宮殿西翼の宝庫出土  高さ17.3㎝ イラクリオン考古博物館蔵
クノッソス宮殿の遺跡は大きいとは思わなかったが、このリュトンは思っていたよりも大きかった。
また、色はもっと白っぽかったと思う。照明などの影響で、ローズ・クリスタルのように写ってしまった。
『世界美術大全集3エーゲ海とギリシア・アルカイック』は、灌奠用のリュトン。300点余の断片から復元したもの。長円形で尖底である。一塊の水晶からこれだけの大きさの胴部を彫り出すには非常に高度な技術を必要とするという。
把手部分は水晶を青銅の針金で数珠つなぎにして、優雅な曲線をつくっている。把手の下部の数珠は発掘時にも破損せず、本来の位置についていた。針金の緑色は酸化によって生じた色彩で、本来は鍍金が施されて、透明の水晶を通して金の糸が光り輝いていたと想像されるという。
把手の水晶の数珠も、本来は器体と同じ色だったのか。
頸部は別個の水晶から制作され、後からつなぎ合わされた。また頸部の根元部分は、鍍金された象牙の断片と水晶を組み合わせた可動式の輪状装飾となっているという。 
金の針金だと思っていたこの輪っかは、象牙に金メッキしたものだった。 
それにしても、金メッキ(鍍金)というものが、こんなに古くからあるものだったとは。
リュトンは角状杯とも呼ばれ、液体を注ぐ用途のために、上に液体を入れる口、下に小さな注ぎ口をもつ。下の小さな注ぎ口は指で押さえるか、栓で開閉する。図はリュトンの扱い方の一例を示したものである。宗教的な儀式で、酒や清水、場合によっては動物の血など、さまざまな液体を注ぐための容器であるという。
アンフォラと思っていた容器がリュトンだったとは。

同考古博物館には、石製リュトンもあった。

山上の祠堂のリュトン 前1450年頃 ザクロ宮殿出土 緑泥岩(クロライト) 高さ24㎝ イラクリオン考古博物館蔵
同書は、「山上の祠堂」の情景が浮彫りにされた石製杯。石材の加工技術の卓抜さと、その図像がクレタ宗教特有の「山上の祠堂」を表現することから、きわめて重要な作品である。上部に通称「山上の祠堂」の建物、中段から下方には、岩山と変化に富んだ野生の動物の姿態が表現される。浮彫りはクレタ美術特有の躍動感にあふれている。表層に金箔の残存が見られることも興味深いという。 
ミノア時代の宮殿あるいは祠堂は、どこのものも牡牛の角が並んでいたことが、このようなリュトンや印章指輪の図からうかがうことができる。
で、この積みあげた壁体は日干レンガか切石かだが、『ギリシア美術紀行』はキュクロプス式の巨石を組んだ壁体という。
キュクロプス式の壁の画像はこちら

形としては、水晶製リュトンとよく似ている。肩部の輪っかというものが何を象ったものかはわからないが、重要な部品であることがこの器からもわかる。
その下に穴、ひょっとすると把手が取りつけられていたのかも。
描き起こし図を見ると、起伏の多い岩山の頂に、ミノス美術特有の連続渦巻文様で飾られた建物が現れる。正面入口の上部に4匹の山羊が鎮座する。両脇の小入口下方には供物台が設置され、その下に大型の祭壇が認められるという。
この無人の祠堂こそ、母神の「顕現」が重視されたクレタ宗教の世界観を如実に示している。通常は無人の社に、顕現の時期に合わせて、捧げ物などの準備を行い、場所によっては母神の降臨を祈願する集団舞踊が行われた。母神の降臨する山頂を岩山のモティーフで象徴的に表現した例もあるという。
集団舞踊の場面はこちら

リュトンといえば、牛の角のように曲がったものを想像するが、アンフォラのような形もあれば、真っ直ぐな角坏もある。

ボクサー・リュトン 新宮殿時代、前1500-1450年頃 滑石製 クレタ島、アギア・トリアーダ出土 イラクリオン考古博物館蔵
『HERAKLEION ARCHAEOLOGICAL MUSEUM』は、献酒用。ボクシング、レスリングそして牛跳びの場面が浮彫りされているという。
牛頭形リュトン 前1500-1450年頃 クノッソス出土 凍石 高さ20.6㎝(角を除く) イラクリオン考古博物館蔵
『世界美術大全集3』は、角の部分は発掘後の復元で、原作では木製で鍍金されていたと推測される。眼は水晶をはめ込み、瞳孔などの細部を着彩、周囲を赤碧玉で囲む。鼻先は貝を象嵌。頭頂部分の体毛は浮彫り、その他は線刻で、細部の正確さを兼ね備えた、生き生きとした造形となっている。頸部後方の上端に小さな穴があり、そこから液体を注ぎ入れ、牡牛の口の部分が開口部、つまり注ぎ口となっていたという。
ミケーネ円形墓域A、Ⅳ墓出土の 牡牛の頭部のリュトン(前1550-1500年頃)とよく似ているが、こちらの方が時代が下がるようだ。

法螺貝形リュトン アラバスター
横向きに置かれていたので、画像としては小さいが、実物は大きかった。
ミノア時代には、様々な材質で、こんなに多様な形のリュトンが作られていたのだった。

 イラクリオン考古博物館3 粒金細工← 
       →イラクリオン考古博物館5 ミノア時代の建物の手がかり

関連項目
イラクリオン考古博物館1 壁画の縁の文様
イラクリオン考古博物館2 女性像
イラクリオン考古博物館6 ミノア時代のファイアンスはすごい
イラクリオン考古博物館7 クレタの陶器にはびっくり
イラクリオン考古博物館8 双斧って何?

※参考文献
「世界美術大全集3 エーゲ海とギリシア・アルカイック」 1997年 小学館
「ギリシア美術紀行」 福部信敏 1987年 時事通信社
「HERAKLEION ARCHAEOLOGICAL MUSEUM」 ANDONIS VASILAKIS ΕΚΔΟΣΕΙΣ ADAM EDITIONS

2014/03/21

イラクリオン考古博物館3 粒金細工



イラクリオン考古博物館にあった金製印章指輪の輪っかの外側に大小の粒金が並んでいた。

印章指輪 粒金部分 前1450-1400年頃 イラクリオン考古博物館蔵
右外側の印章と接している金の粒は、ほとんど地金には熔着していないように見える。
別方向より
多少のずれや大きさが均一でないなどの難点はあるが、粒金を3つの大きさにつくり分けている。

その前の時代の作品は、

耳飾り 金製 前1700-1350年頃 イラクリオン考古博物館蔵
左のものは粒金が熔けて、互いにくっついてしまっているように見え、右のものは粒金の粒が平たくへしゃがっている。

耳飾り 金製 前1700-1450年頃
金の粒だけを鑞付けしている。
ティリヤ・テペの墓で出土した金の粒だけを鑞付けした装身具(前1後半-後1世紀前半)にも見られる技法だが、それよりはるか以前にすでにあったのだ。

装身具の部品 金製 前1700-1350年頃
こちらは土台に直接粒金を熔着しているのではなかった。 

以前粒金細工の起源を探っているとき、ギリシアで最も古いのがミツバチのペンダントだった。

蜜蜂のペンダント 金 幅4.6㎝ クレタ島マリア出土 前1800-160年頃 イラクリオン考古博物館蔵
『世界美術大全集3』は、精巧な粒金細工(金の細粉を鑞付けする方法)を用いている。新宮殿時代初期の工芸品の傑作。クレタ島第3の規模を誇るマリア宮殿に隣接する、クリュソラコスと呼ばれる大規模な地下埋葬所の一画から出土。
ペンダントの構造は以下のとおり。蜜蜂2匹が紋章風に左右対称に向かい合う。中央に見事な粒金細工を施した、蜂の巣を想わせる円盤を抱えている。2匹の蜂の頭の上には、小さな球体が球形の籠のなかに収められている。蜂の羽と胴体の端から、三つの円盤飾りが下がっている。蜂の足部分と上方の球形の籠には細線細工(金の細線を鑞付けする方法)が用いられている。ペンダントの本体は金板の打ち出し細工によるもので、内部は空洞、背面は平滑
という。

粒金細工も金線細工もすでにこの時代確立した技術だった。

そして今回は、イラクリオン考古博物館でもっと以前の粒金細工を見付けた。

ライオンまたはカエル形ビーズ 金製 古神殿時代(前2000-1800年頃、同書と博物館の説明では時代が異なっている。こういう場合、博物館の方を優先することにしている) メサラ出土 イラクリオン考古博物館蔵
博物館の説明では、粒金細工と渦巻装飾の初期の例という。

せっかく撮ったのに全くのピンボケのため、『Το Δαχτμιδι τομ Μινψα: η οπισθια οψη της οφενονης χαι ο χφχος』の図版を借りる。
私にはカエルに見える。そして、粒金が立体的に鑞付けされているように見える。

世界的にみて、前2000-1800年頃の粒金細工は早い時期のものだが、それでもメソポタミアの方が古くからある。
それについてはこちら

  古代マケドニア6 粒金細工・金線細工←  
              →イラクリオン考古博物館4 水晶製のリュトン

関連項目
黄金伝説展2 粒金だけを鑞付けする
黄金のアフガニスタン展1 粒金のような、粒金状のは粒金ではない
メソポタミアの粒金細工が最古かも
ティリヤ・テペの細粒細工は金の粒だけを鑞付け
ギリシアの粒金細工
イラクリオン考古博物館1 壁画の縁の文様
イラクリオン考古博物館2 女性像
イラクリオン考古博物館5 ミノア時代の建物の手がかり
イラクリオン考古博物館6 ミノア時代のファイアンスはすごい
イラクリオン考古博物館7 クレタの陶器にはびっくり
イラクリオン考古博物館8 双斧って何?

※参考文献
「クノッソス ミノア文明」 ソソ・ロギアードウ・プラトノス I.MATHIOULAKIS
「ギリシア美術紀行」 福部信敏 1987年 時事通信社
「世界美術大全集3 エーゲ海とギリシア・アルカイック」 1997年 小学館
「名画への旅1 美の誕生 先史・古代Ⅰ」 木村重信・高階秀爾・樺山紘一 1994年 講談社
「Το Δαχτμιδι τομ Μινψα: η οπισθια οψη της οφενονης χαι ο χφχος」  ΤΟ ΔΑΚΤΥΑΙΑΙ ΤΟΥ ΜΙΝΩΑ
「HERAKLEION ARCHAEOLOGICAL MUSEUM」 ANDONIS VASILAKIS EΚΛΟΣEΙΣ ADAM EDITIONS

2014/03/18

イラクリオン考古博物館2 女性像



クノッソス宮殿東翼の31:王妃の間の東壁には女性像が描かれていた。
もちろん複製。
白いく長い服はベルトのようなものが回っている。下には黄色く短いスカートと、足首まである青いスカートを着け、半袖の上着を着ている。
縮れた髪は左右に翻っているが、背中にも垂れている。

踊る女性図 前15世紀 王妃の間出土
『クノッソスミノア文明』(以下『クノッソス』)は、踊りながら回転した勢いで髪が舞い上がったように見える。女性の衣裳、とくに染糸で縫い取りされた半そでの上衣は興味深いという。
回転している場面の描写だとは思わなかった。当時の踊りはかなりスピードのあるものだったようだ。
『名画への旅1美の誕生先史・古代Ⅰ』は、婦人は、宮廷の女官ではなく神であり、しかもその顕現と考えられるという。

クレタの女神像といえばこれ。
23:宝物保管室の床下に埋め込まれていた石製の宝物箱の中に収められていたという(『クノッソスミノア文明』より)。

蛇女神像 前1600年頃 ファイアンス 高さ29.5㎝ イラクリオン考古博物館蔵
『世界美術大全集3エーゲ海とギリシア・アルカイック』は、蛇女神は大地母神の信仰に属していた。本作品の蛇女神の頭部に付けられた野生の猫は牝獅子とも考えられており、女神と獅子の組み合わせはクレタの印章上にも登場する。
胸をあらわに見せる上着と、細く絞ったウェスト、エプロン風の前垂れ、その下に切り替えのあるスカートという出で立ちという。
王妃の間の女性像は、蛇女神ではないらしい。
蛇女神像 前1600年頃 ファイアンス 高さ約34㎝ イラクリオン考古博物館蔵
同書は、高い三段帽子をかぶり、3匹の蛇が女神の身体にまといついているという。
上の像とはスカートが地面すれすれの長さでは共通するが、こちらは切り替えもない、シンプルなスカートだ。

平たい女性像もあった。

女性の装飾板 ファイアンス 時代・出土地不明
衣服のモデルという(『HERAKLEION ARCHAEOLOGICAL MUSEUM』、以下『MUSEUM』より)。
長いスカート、半袖の上着、太いベルトというのが王妃の間の女性像に似ている。

その他に参考にできるものといえば、印章にも表された女性像だ。

印章指輪 前1450-1400年頃 黄金 長径訳2.5㎝ イソパタの王墓出土 イラクリオン考古博物館蔵
『世界美術大全集3』は、クノッソス宮殿の通称「王家の墓」イソパタから出土した黄金製の印章指輪。印章とは金石などに文字や図柄を彫って、器物や文書に押印するものであり、所有権を示し、また印章自体が護符の役割を果たすこともあった。
百合の野で執り行われる女神の「顕現」と、女神を取り巻く女性信者の陶酔に身を任せた舞踊が表現されているという。
長いスカートを着けて踊っているが、髪が左右に広がるほどの旋回はしていない。
動きがあるせいか、切り替えのあるスカートの端がギザギザに表されている。

印章指輪 前1600-1500年頃 イラクリオン考古博物館蔵
中央の巨大な女神の切り替えのあるスカートはV字形に表されている。

印章指輪 前1600-1500年頃 クノッソス宮殿地域南方セロポウロの墓出土 イラクリオン考古博物館蔵
『MUSEUM』は、女神と翼を広げたグリフィンという。
おそらく切り替えのあるスカートを表現したのだろうが、横に衣端が突き出ているようになっている。

印章指輪 前1450-1400年頃  
右端の女神は建物に腰掛けている。切り替えのあるスカートは、幅広のパンツのようで、それぞれに衣端が突き出ている。画面中央下には、波間に舟が浮かんで、女神が櫂を漕いでいる。
考古博物館で小さな印章をじっくり見るのは難しいが、指輪側を見るのはもっと困難である。ギリシア語版しか売っていなかった『Το Δαχτμιδι τομ Μινψα: η οπισθια οψη της οφενονης χαι ο χφχος』には大きく横側面と縦側面の図版があり、粒金が並んでいたことを知った。
ある程度大きさの揃った金の粒を、大小それぞれ一列に鑞付けしている。
鑞付けについてはこちら

彩色石棺 前1400年頃 クレタ、ハギア・トリアダ出土 石灰石 長さ137㎝ イラクリオン考古博物館蔵

『MUSEUM』は、黄色い背景では、女祭祀が犠牲の牛に手をかけ、その背後に女性たちの行列があるという。

宮殿期以後(前1400-1100年頃)になると、女性は全く異なった姿で表現されるようになる。
女性像 イラクリオン近郊ガジ出土
『MUSEUM』は、衣服は円筒のように扱われている。腕は挨拶または祝福のために挙げている。
頭頂には様々な象徴を載せている。鳥、角、ポピーの花などという。
この女性たちは、女神でも女祭司でもなく、礼拝者または崇拝者ということらしい。


   イラクリオン考古博物館1 壁画の縁の文様
                →イラクリオン考古博物館3 粒金細工


関連項目
イラクリオン考古博物館4 水晶製のリュトン
イラクリオン考古博物館5 ミノア時代の建物の手がかり
イラクリオン考古博物館6 ミノア時代のファイアンスはすごい
イラクリオン考古博物館7 クレタの陶器にはびっくり
イラクリオン考古博物館8 双斧って何?

※参考文献
「クノッソス ミノア文明」 ソソ・ロギアードウ・プラトノス I.MATHIOULAKIS
「ギリシア美術紀行」 福部信敏 1987年 時事通信社
「世界美術大全集3 エーゲ海とギリシア・アルカイック」 1997年 小学館 
「名画への旅1 美の誕生 先史・古代Ⅰ」 木村重信・高階秀爾・樺山紘一 1994年 講談社
「Το Δαχτμιδι τομ Μινψα: η οπισθια οψη της οφενονης χαι ο χφχος」  ΤΟ ΔΑΚΤΥΑΙΑΙ ΤΟΥ ΜΙΝΩΑ 
「HERAKLEION ARCHAEOLOGICAL MUSEUM」 ANDONIS VASILAKIS EΚΛΟΣEΙΣ ADAM EDITIONS

2014/03/14

イラクリオン考古博物館1 壁画の縁の文様


クノッソス宮殿では、それぞれの建物から発見されたフレスコ画のコピーが再現展示されていたほか、西翼の王座の間の上の階がコピーの展示室となっていた。そして、本物はイラクリオン考古博物館で展示されているという。

イラクリオンに戻って、エレフテリアス広場のはずれにある考古博物館へ。
こちらの建物は、各部屋は小さく、天井も低く、その上貸し出し中なのか、空のケースも複数あった。

展示室にあるはずのクノッソス宮殿出土のフレスコ画は2点のみ。その1つが牛跳びだった。

牛跳びの図 前1500年頃 高さ86㎝(現存部分) クノッソス宮殿出土
『世界美術大全集3エーゲ海とギリシア・アルカイック』は、エーゲ海文化で非常に好まれた「牛跳び」の儀式またはスポーツを表現した壁画、高さ86㎝の壁画が3ないし4パネルに連続して描かれていたという。
『世界美術大全集3』は、画面左から、疾駆する牛の角を両手でつかんでいる若者、
同書は、牛の背で逆立ちをしている若者、
牛の背後で両手を伸ばしている若者の3者である。興味深いことに、牛の背で逆立ちをしている若者の肌の色は褐色であるが、残りの2人は白い肌をしている。クレタ美術における肌の色の別は、原則としてエジプト美術の習慣に従っており、男は褐色、女は白色と、性別により分けられていた。しかし、ここでは白い肌の若者たちも、男性用の腰布を着けており、肌の色以外では男性の肉体的特徴を示している。エジプト美術の慣習は全面的には受け継がれていないのだろうかという。

同書は、この壁画でそのほか注目すべき点は、画面を縁取る岩石文様であろう。縞模様や斑点模様が一種のデザイン画のように様式化されている。白、グレー、黄土色、茶色、黒の岩塊がリズミカルに反復されるという。 
私もこの縁飾りというか文様帯には興味があった。
クノッソス宮殿のフレスコ画が、原則的に男性は褐色、女性は白色と色分けすることになっているのなら、岩模様もエジプトに起源があるのではと探してみたが、エジプトではもっと時代が下がっても、このような文様帯はなかった。
それなら、岩模様はクノッソス宮殿で始まった文様だろうか。
しかしながら、まず文様から始まったとは考え難い。それ以前には、実際に様々な色の岩を並べる室内装飾があったのを、省略して壁画に表したのではないだろうか。

同書は、さらに様式化された岩模様をもつ作例として、ハギア・トリアダ出土の彩色石棺やギリシア本土ピュロス出土のフリーズが挙げられる。もともとは岩石の模倣が念頭にあったのだろうが、しだいに様式化したデザインとして定着したという。

彩色石棺 前1400年頃 クレタ、アギア・トリアダ出土 石灰石 長さ137㎝ イラクリオン考古博物館蔵
同書は、死者を埋葬するための石製の棺。石灰石の表面に漆喰を塗り、その上にフレスコ技法で装飾を用いているので、実質的には壁画と同じ構造である。当画面に描かれた人物の硬い表現、また死者の慰霊などの主題は、エジプト文化の影響を暗示するが、クレタ文化とエジプト文化の交流関係は不明確な点が多く、現時点では推測の域を出ない。
主題は屋外の祭壇で牡牛を犠牲に捧げる情景。ここに表現された社の建築は、「聖なる角」を飾り、建物中央には渦巻文様を施し、正面観を強調したものという。 
この多色の縦縞模様が、牛跳びの図の丸い岩模様の様式化したものとは思わなかった。

岩模様だけではない。アラバスターの縞模様と思われるものが、西翼王座の間のグリフィンの下に文様帯として描かれていたのだった。

玉座の間奥壁フレスコ 前15世紀後半 クノッソス宮殿
同書は、グリフォンのモティーフの起源を検討すると、オリエント地方で創造され、エジプトに伝わり、その後、スフィンクス(人の頭部と獅子の身体をもつ怪物)とともに、エーゲ海文化に伝えられたと一般に理解される。オリエントの獰猛なグリフォンのイメージは、エーゲ海美術のなかで徐々に様式化されたという。
アラバスターにしてカラフルすぎるようにも思うが。

このようなイリュージョンは、ポンペイの壁画第1様式に始まるものかと思っていたのだが、マケドニアのペラ考古博物館に収められていた漆喰画の館(前3世紀末)の想像復元図にすでにあった。
ここでも最下段にカラフルなアラバスターの縞模様がみえる。
別の館の想像復元図の方がよくわかるかも。
こちらは直線的な縞模様で、色もアラバスターっぽい。

このようにみてみると、クノッソス宮殿では前1500年頃にすでに岩模様やアラバスターの縞模様などが文様帯に表されているので、ひょっとすると、アラバスターの縞模様の文様帯はクレタが最初かも。

                 →イラクリオン考古博物館2 女性像

関連項目
古代マケドニアの遺跡7 ペラ考古博物館1 漆喰画の館
ポンペイの壁画第1様式
イラクリオン考古博物館3 粒金細工
イラクリオン考古博物館4 水晶製のリュトン
イラクリオン考古博物館5 ミノア時代の建物の手がかり
イラクリオン考古博物館6 ミノア時代のファイアンスはすごい
イラクリオン考古博物館7 クレタの陶器にはびっくり
イラクリオン考古博物館8 双斧って何?

※参考文献
「クノッソス ミノア文明」 ソソ・ロギアードウ・プラトノス I.MATHIOULAKIS
「名画への旅1 美の誕生 先史・古代Ⅰ」 木村重信・高階秀爾・樺山紘一 1994年 講談社
「世界美術大全集3 エーゲ海とギリシア・アルカイック」 1997年 小学館