円形墓域Aで出土した黒金を使った金や銀の象嵌装飾のある短剣の数々には目を見張ったが、貴石の象嵌のある短剣にも驚いた。
剣の柄 円形墓域A、Ⅳ墓出土 青銅・金・貴石 前16世紀中葉
七宝繋文の4葉の繋ぎ目に丸い石の象嵌の残っている箇所もある。
剣を包むところには鳥の羽根のような文様があり、付け根部分には盛り上がりが残っているので、おそらく猛禽類の向かい合う2つの頭部があったのだろう。
貴石の象嵌という技術はミケーネから始まったのだろうか。他に遺品がない上に、あまりにも完成された技術がうかがえるこの作品は、請来品ではないのだろうか。
古代シリアの地にその先例を求めてみると、ビブロスにあった。
胸飾り 前19-18世紀 レバノン、ビブロスの王墓出土
卵形の縁に七宝繋文の文様帯が巡り、下半分には猛禽類が羽根を広げている。頂部にあるのは羽根を広げているが、スカラベのようだ。すると、中央の白っぽい楕円形の部分はヒエログリフの王名のあるカルトゥーシュということになって、これはエジプトの製品か、レバノン杉を求めてやってきたエジプト人が当時のビブロスの王の名をヒエログリフにして贈ったものか、エジプトの製品をまねてビブロスの工人が制作したものということになる。
胸飾り 前19-18世紀 ビブロスの同王墓出土
これを見ると明らかにエジプトの図柄だ。私にはこれがエジプト製かビブロスの工人の作か、見分けがつかないが、エジプト美術の専門家が見たらすぐにわかるだろう。
シトハトホルリウネト王女の胸飾 第12王朝時代、前1897-1878年頃 ラフーン第8号墓出土 金工・貴石 ニューヨーク、メトロポリタン美術館蔵
Ⅳ墓出土の短剣と同じ羽根の文様がある。やはりこの短剣はエジプト製だろう。
『世界美術大全集2エジプト美術』は、ラピスラズリで作られた三日月形の握りの部分は上面が湾曲していて、握りやすいように形作られている。柄には金を下地として、ラピスラズリ、紅玉髄、トルコ石で象嵌が施され、紅玉髄の赤の背景のなかに、金で囲まれたラピスラズリとトルコ石の円形を交互に配置した装飾が描き出されている。赤、群青色、緑がかった空色のリズミカルな配色に、円形を斜めに区切る金がアクセントを加え、本来実用的な武具であるはずの短剣に、華麗な装飾品としての彩りを添えているという。
Ⅳ墓出土の短剣よりも古い時代のもの。趣は異なるが、エジプトには宝飾品だけでなく、貴石を象嵌した短剣というものがあったことを示す遺品だ。
他にも金属の型に貴石を象嵌したものがあるかも知れないが、ずっち後の時代、黒海北岸で発見されたスキタイやサルマタイの墓からは、現代に通じるような金に貴石を象嵌した装身具が出土している。
それらはギリシアの工人の制作したものだという。
ミケーネの時代から、貴石の象嵌という技術は、ギリシアでずっと受け継がれてきたのだろう。
首飾り 前1世紀 クラスノダル地方ペスチャヌイ村古墳群10号墓出土 クラスノダル博物館蔵
『南ロシア騎馬民族の遺宝展図録』は、サルマタイ貴族の女性に伴った多数の副葬品のなかで特に注意を惹くのは、多彩様式で作られた金製首飾りである。
この首飾りの中心は、エメラルド・ザクロ石・トパーズが嵌め込まれた3つの菱形である。菱形は金の大粒で囲まれる。3つの菱形の両側には写実的に表されたヤマネコの頭があるが、これは細粒状で表された金の三角形の列と共に、大きなメノウ玉を飾るものである。金製の玉は細粒による三角形や菱形で飾られている。
これはこの時期の特徴である多彩様式の貴金属製品のひとつであり、明らかにボスポロスでギリシャ工人によって作られたものである。ボスポロスの工人の製品は、クバン・ラバ両河地帯のサルマタイの墓で、かなり多数発見されている。戦争の際の略奪品か貢物、あるいは交易によってサルマタイの手に入ったものであろうという。
アテネ国立考古博物館 ミケーネ4 象嵌という技術←
→アテネ国立考古博物館 ミケーネ6 ガラス
関連項目
メソポタミアの粒金細工が最古かも
粒金細工は植民市に住むギリシアの工人が作ったという
アテネ国立考古博物館 ミケーネ7 円形墓域Bの出土物
アテネ国立考古博物館 ミケーネ3 瓢箪形の楯は8の字型楯
アテネ国立考古博物館 ミケーネ2 円形墓域A出土の墓標
アテネ国立考古博物館 ミケーネ1 アガメムノンの黄金マスクとはいうものの
※参考文献
「CORINTHIA-ARGOLIDA」 ELSI SPATHARI 2010年 HERPEROS EDITIONS
「世界の大遺跡3 地中海アジアの古都」 小川英雄編集 1987年 講談社
「世界の文様2 オリエントの文様」 1992年 小学館
「世界美術大全集2 エジプト美術」 1994年 小学館
「南ロシア騎馬民族の遺宝展図録」 1991年 朝日新聞社