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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2009/03/06

新羅の積石木槨墳群から出土する耳飾や指輪に粒金細工

 
新羅の都慶州では金冠冠帽冠飾銙帯と腰偑などの大量の金製装身具が大型の積石木槨墳から出土した。これらを図録にしろ見ていると、原料の金はどこから調達したのだろうといつも不思議だった。
『日本の美術445』は、現在もなお産出した場所は特定できないという。王陵と目される慶州の積石木槨墓の中には未調査の古墳もかなり残っており、まだまだ未知数の部分が多いはずである。
北方騎馬民族が活躍の舞台として往来した草原の道(ステップロード)の途中には、モンゴル語で「金の山」と称された、最大の金の産地アルタイ山脈がある。黒海北岸を中心に生み出されたスキタイの黄金製品も、ここで採掘された金が使用され、各地にもたらされたといわれている。したがってその一部が鮮卑族など北方騎馬遊牧民の手を介し、交易品として朝鮮半島まで及ぶことも充分ありえたに違いない。朝鮮半島の黄金製品に北方系要素が看取されるのも理由の一端はここに起因しているのである。
そのルートを解明してこそ、はじめてユーラシア大陸を横断して朝鮮半島の新羅に至りさらには倭国にまで波及した、気宇壮大な黄金文化伝播の様相を辿ることができる
という。
しかし、高句麗や百済では、新羅ほどの金製品は出土していない。高句麗系の冠は5世紀中葉とされる皇南大塚南墳から出土したが銀製だった。現在のところ新羅最古の金冠は5世紀、
銀冠よりも以前に制作されたとみられているようで、皇南大塚のある邑南古墳群の南に位置する校洞から出土している。
朝鮮半島の三国時代、高句麗という国が半島の付け根から中程までの版図を持っていたのに、遊牧民が高句麗を素通りして、新羅にのみ大量の金あるいは金製品を運べたとは思えない。

ところで、多くの積石木槨墳から金製の耳飾りや指輪も出土している。できたとすれば、中国の五胡十六国時代、中国東部の鮮卑系の小国から、船で運ぶ海上ルートがあったのだろうか。

垂飾付耳飾 金製 天馬塚出土 6世紀 国立慶州博物館蔵
『黄金の国・新羅展図録』は、中間飾と垂下飾が一連のもので、高句麗の耳飾と類似した製作技法がみられる。表面全体は細長い菱形による金板の突起と鏤金により装飾されているという。鏤金は粒金細工のことで、金冠などにはなかった装飾技法だ。このような粒金による線状の装飾をみていると、金冠の打ち出しによる列点文は粒金細工を模したものではないかとも思う。
「金板の突起」には、皇南大塚北墳出土の金製嵌玉釧のように、貴石がはめ込まれていたのかも。 太環耳飾 金製 夫婦塚出土 6世紀前半 ソウル、韓国国立中央博物館蔵
『韓国の古代遺跡1新羅篇』は、普門洞夫婦塚(プブチョン)は丘陵上に築かれている。夫墓は積石木槨墳で、地山を約5.4X1.4m掘り下げて墓壙をつくり、木棺を据える。耳飾り・指輪・釧・土器が出土している。婦墓は横穴式石室墳で、追葬されたものである。2基とも積石木槨墳として築造されたのであり、横穴式石室墳が築造される以前の6世紀中葉ごろまでは、この地域においても主要な墓制であったものと推定されるという。
『日本の美術445』の解説はこちら
この耳飾りは素人目には、貴石を象嵌するには、天馬塚出土の耳飾に比べて輪郭の金線が低すぎるように思う。実用のための金線も装飾の一つになってしまっているようだ。耳飾  金製 銀鈴塚出土 6世紀前半 韓国国立中央博物館蔵
耳飾りになっているが、作りは鈴のようだ。そして粒金ではなく、金線を粒金が並んでいるようにみせかけた細線細工になっている。
丸い貴石を囲むのも同じ擬似線だが、上の2点と比べると、金線と粒金という組み合わせが簡便化されたものといえる。また、貴石ではなく、ガラスが象嵌されている。指輪 金製 金鈴塚出土 6世紀前半 韓国国立中央博物館蔵
上の指輪は、貴石に金線を巻き、その周囲に粒金を並べて四花文としている。その下も同じもので、貴石がはずれてしまったように見える。しかし、貴石は金線の輪郭に合っていない。貴石ではなく、ガラスを溶かしてはめ込んだように見える。 指輪 金製 奈良、新沢千塚126号墳出土 
『日本の美術445』は、細い帯状の金線を環状にしつらえ、正面になる部分に半球状の鋺形を鑞付けしたのち、その表面に細粒と帯板で四弁花文を象っている。弁内は剥落しているが、当初は嵌玉であったと想定される。形状といい嵌玉を意図した細粒細工の花形文様といい、極めて西方風であるのが特徴的であるという。
この指輪は金鈴塚出土の指輪とよく似ている。しかし、金鈴塚の指輪はリングの部分が完成度の高い物なのに対して、新沢126号墳の指輪のリング部分は金板を切っただけのもので、技術的には稚拙なもののように思える。金製品が倭国の古墳に登場してくるのは、倭国が朝鮮半島の三国や伽耶と積極的に交流関係を保つことになった5世紀中葉、ちょうど古墳時代後期に入った頃からである。
奈良・新沢千塚126号墳は5世紀後半前後に造られたとみられているが、各種の金製装身具を副葬した最初の古墳である。金製装身具は新沢千塚108号墳や109号墳からも垂飾付耳飾を出土しており、その金製品はいずれも三国時代朝鮮半島製であることが、韓国出土の類例に徴して確かめられている。
したがって新沢千塚古墳群は、まさに朝鮮半島からの渡来人集団が築造した群集墳だったのである。とりわけ質の高い各種の金製装身具を埋葬していた126号墳は、規模の点では目立つ存在ではないものの、集団を統率した人物が被葬者であったことは疑う余地がない
という。
そうだとすると、古墳の形も異なるし、大きさが全く違う。慶州の巨大な積石木槨墳を見学した今では、違和感があるのは否めない。新沢千塚古墳群の分布図はこちら

新沢千塚126号墳の金製品はこちら。歩揺冠はこちら。ガラスはこちら

※参考文献
「日本の美術445黄金細工と金銅装」(河田貞 2003年 至文堂)
「韓国の古代遺跡1 新羅篇(慶州)」(森浩一監修 1988年 中央公論社)
「黄金の国・新羅-王陵の至宝展図録」 (2004年 奈良国立博物館)
「海を越えたはるかな交流-橿原の古墳と渡来人-展図録」(2006年 奈良県立橿原考古学研究所付属博物館・橿原市教育委員会)
「金の輝きガラスの煌めき-藤ノ木古墳の全貌-展図録」(2007年 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館)