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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2018/04/10

松屋常盤の紫野味噌松風と切れ端


突然やってきた地下鉄丸太町駅下車という機会は、松屋常盤の近くに行けることだと2日ほど前に思いあたった。久しく口にしていない味噌松風が食べたいと、もう無理かなと思いつつ予約の電話を入れると大丈夫とのこと。厚かましいついでに、「松風の端っこもありますか?」と尋ねると、これまたOKだった。

堺町御門の前には横断歩道はないので、ちょっと東の裁判所前まで行って、渡ってから引き返すことにはなる。
堺町通左右の家並みも落ち着いている。
西側と
東側。マンションもできたりしているが、それでも板塀の家が続いていて、京都らしい雰囲気が残っている。車もあまり通らず、静かな通だ。

そして松屋常盤のお店。
味噌松風と切れ端(箱入りだった)を、厚かましくお店の中でリュックに入れさせてもらった。荷物の入れ替えで手間取っている間に別のお客さんが買いに来られた。
その日の予約数によって松風の小は多めにできる時もあるらしく、小箱を予約なしで買っておられたが、切れ端はもうないとのことだった。切れ端も予約しておいて良かった!
ついでですが、大箱は予約だけとのこと。

リュックを背負って、お店に入った時に気になっていたこの火鉢をどうしてもカメラに収めておきたくなった。
お店の方に「写真を撮ってもいいですか?」と尋ねると、先ほど同様に「どうぞ」とのこと。そばに寄るとほんのりと暖かみが伝わってきた。このお店の雰囲気そのもののような火鉢なのだった。
どう撮ればこの木製の火鉢が映えるかなど考えてはいられない。まして動かすこともできないのでまず1枚。
そして別の方向からもう1枚。
創業以来使ってこられたのかと思うほどに、縁がひび割れ、炭化している。
そしてこの火箸!頭が猪目形になっていて、カマキリの頭のようでもある。後日ある人にこの写真を見せると、お寺などの大きな建物の建造に使う釘なのだそう。

切れ端の箱を味噌松風(大)と比べると意外と大きく、ずっしりと重い。
ずっと以前に箱いっぱいに入っている味噌松風の取り出し方について、箱を解体するという記事を書いたが、今回もそうするつもりで、両側の紙を引っ張ると、すっぽりと抜けた。こんなに簡単に取り出せるとは。

小皿に取り分ける。
まずは白い皿に。

次に蕗の薹の皿に。
このように斜めから撮影すると、かなり前の方にお菓子をのせても、前側が大きく写ってしまい、後方に偏って置いたように見えてしまう。

そしてこれが切れ端。
お味噌がかかっているので、手で取り出すとベタベタしてしまうので、お箸で取り出した方が良いのだが、切れ端どうしがお味噌でくっついているので難しい。

まずは鎌倉彫の皿に。この3つの文様は何だろう?大きな3つの如意頭の端が向かい合った形でもなさそう。
下の方に曲がった切れ端があって面白いと思ったので。
これが上の方の切れ端。ざっくりと盛った方が切れ端っぽいと思ったけれど、センスがないもので😅

そして、白い鉢にも。
切ったものを盛りつけるのもアリです。食べやすいし。

包みに入っていた味噌松風の説明には、
代々、公家や茶人に愛でられてきた紫野味噌松風は、謡曲(松風)に因み大徳寺57世和尚から伝授されたといわれています。
京都の白みそ(西京味噌)に小麦粉を練り混ぜ焼き上げたものです。
一子相伝の技で香ばしく焦げ色ついた表側と、ほの白い裏側の対比に趣きが有ると贔屓にして戴いております。御所出入りの舗として、後光明天皇より、禁裏御菓子匠の白い暖簾を賜り創業から360年の今日に至って居ります。
正式名称は「紫野味噌松風」。確かに白い暖簾だった。

大徳寺ファン大徳寺歴代住持によると、大徳寺57世は 天釋禪彌(てんしゃくぜんみ)で、一休宗純(1394-1481)が47世。室町時代の禅僧のよう。
後光明(1633-54)は江戸時代前期の天皇。

    京都御苑に宗像神社と厳島神社←     →寺町通 2018年

関連項目
久しぶりに松屋常盤の味噌松風
松屋常盤 味噌松風

参考サイト
大徳寺ファン大徳寺歴代住持