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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2025/10/14

粘土板文書とブッラ


チョルム博物館には粘土板文書やブッラ(下写真の左奥に展示されている円錐形または角形の土製品)の展示コーナーがあった。

ヒッタイト帝国 「鉄の王国」の実像』(以下『ヒッタイト帝国』)は、メソポタミア文明の粘土板文書は前3000年頃の成立段階から圧倒的に私的な経済文書で占められており、前2千年紀初頭にアナトリアに来たアッシリア商人の文書でも同様であった。それに対し、ヒッタイト文書はほとんどが宗教文書であり、古ヒッタイト時代の土地贈与文書を除くと経済文書がない。これはなぜだろうか。そもそも存在しなかったとは考えにくいという。
同書によると、チョルム博物館に展示されていた平たい粘土板文書には、王の年代記や功業録、馬の調教マニュアルなどがあったらしい

また、上写真の平たい粘土板文書の前に置かれた青銅製筆記具は、説明パネルによると、ワックスで覆われた板に文字を刻むための尖った端と、文字を消すための鈍い端が付いた小さな棒でできているという。
なかなか現存しないというワックス・タブレットが、ウルブルン沈没船から発見されている。ウルブルン沈没船について詳しくは水中考古学者と7つの海の物語世界最古の沈没船、ウルブルン沈没船(紀元前1300年頃)

ボドルム水中考古学博物館蔵ウルブルン沈没船出土のワックス・タブレット ヒッタイト帝国 「鉄の王国」の実像より


中には真ん中が出っ張っているものもあって、丸く大きなスタンプ印章が深く押されている。同書によると、このような粘土板文書は土地贈与文書ということだ。

『ヒッタイト帝国』は、古ヒッタイト時代の土地贈与文書(枕のように中央に厚みがあり、中央にスタンプで捺印されている)には、粘土板の下端に紐が挿されていた跡があり、その紐の先端にはブッラが結わえられていたらしい。その後時代が下り前15世紀以降から、宗教関連文書を除く多くの文書が、「木の板」と呼ばれたワックス・タブレット(木の板にロウを塗り、先端の尖った金属でロウを引っ掻いて字を記す器具。ローマ時代にも存在する)への記載に移行したらしい。 ワックス・タブレット自体は土中で腐朽してしまい残らないが、土製であるブッラのみは残存して出土するというわけであるという。
このような粘土板文書にブッラが結わえられていた?

中央に押された王のスタンプ印章。スタンプ印章の中央には蔓を伴った八弁花が彫られていて、それをヒッタイト語楔形文字が囲んでいる。
この粘土板文書はどの王のものか不明らしい。


土地贈与文書 トプラク出土 前1600-1450年頃

中央のスタンプ印章には八弁花の周囲にヒッタイト語楔形文字が刻まれている。こちらもどの王のものか不明だが、八弁花が上とは違ってロゼット文。

そして表裏に刻まれた楔形文字で以下のように記されていた。
説明パネルは、大王は、ウヒヴァ市の羊飼いたちが暮らす夏季と冬季の牧草地を、侍衛長ハスリに贈与した。ハスリおよびその孫に対して、将来いかなる者も請求権を持たない。大王の約束は鉄でできており、決して変更したり破棄したりできない。約束を破った者は斬首される。この銘板は、ヒッタイト王宮の侍衛長サルパ、ハヌックリが、総司令官イスカヌッスの前で書いたものであるという。
ヒッタイト古王国時代にすでに「鉄」があったことが記述されている。


『ヒッタイト帝国』は経済文書がないことについて、ボアズキョイから大量に出土した、ブッラ(捺印された小さい粘土塊)である。1991年、ボアズキョイ・ビュユックカレ(王宮跡)のやや南の斜面から、帝国期後半(前13世紀)を中心とする約3000点のブッラが集中して出土した。そこは文書の保管庫と思しき場所であったが、粘土板文書は出土しなかったという。

ブッラというのは、スーサ出土、ルーヴル美術館蔵トークンの入った球形封泥(ウルク後期初期、前3300年頃)のようにトークンを泥に包み込んだように球に近いものだと思っていた。
詳しくはこちら
ルーヴル美術館蔵 スーサ出土 トークンの入った球形封泥(ブッラ) 前3300年頃 メソポタミア文明展図録より


ところが、ヒッタイト時代のブッラは円錐形でそこそこ大きなものだった。
メソポタミアでは前4千年紀に使用され、後に廃れて平たい粘土板に文字を刻んで記録するようになったというのに、ヒッタイト帝国では形は変わったけれど復活したということだろうか。この中にはトークンが入っているのかな。


❶王名不明 ❷王名不明  

❸ハットゥシリ三世(
Hattusili 1266-36) と妃のプドゥヘパ Puduhepa 
❹ムルシリ三世(Mursili 1272-64) 

❺ムワタリ二世(Muwattalli 
1295-72) 
❻クラル・クルンタ(Kral Kurunta ムワタリ二世の次男 13世紀中頃 )

❸❹❺には有翼日輪が表されている。有翼日輪について以前調べたところ、ツタンカーメン(前14世紀後半)の厨子型カノプス櫃が最古のもので、ツタンカーメンの黄金の椅子にツタンカーメンと妻アンクエスエンアメンの上方から太陽の光が人間の手となって降り注いでいる。これは、父アクエンアテンが太陽神アテンを信仰した名残で、アテンは先端が手の形をした複数の光線をもつ太陽円盤として表された(『図説古代エジプト1』より)。
その太陽円盤が、ネクベトと結びついて有翼日輪となったのが、ツタンカーメンの時代だったのだろうなどと勝手に決めていた。
ツタンカーメンの没後、妻のアンクエスエンアメン(アンケセナーメンの方が通じるかも)が、ヒッタイトのシュッピルリウマ一世に息子を一人婿にほしいと書簡を送り、ようやくヒッタイト側が息子の一人ザナンザを送ったが殺され、果たせなかった。このようないきさつがあったので、エジプトからの贈り物に有翼日輪が伝わっても不思議ではないだろう。


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参考サイト

参考文献
「ヒッタイト帝国 「鉄の王国」の実像」 津本英利 2023年 PHP新書1376
「大英博物館 アッシリア大文明展-芸術と帝国-図録」 1996年 朝日新聞社
「図説古代エジプト1 ピラミッドとツタンカーメンの遺宝篇」 仁田三夫 1998年 河出書房新社