アメンホテプⅡ墓出土のアンフォラ型脚支持台付(前15世紀)に透明ガラスが使われていた。
『世界ガラス美術全集1古代・中世』は、脚支持台は、淡青、透明茶、透明緑の大理石文。王銘入という。
透明なガラスの色は茶と緑の2色。この図版では透明かどうかわからない。
何故容器そのものに透明ガラスが使われなかったのだろう。
今までみてきたメソポタミアのガラスで、透明なものはなかったが、もう少し時代が下がるが、透明ガラスの作品は確かにエジプトにあった。
魚形容器 サッカラ出土 前14世紀 コア技法、アップリケ 高5.3㎝長10.7㎝ アメリカ、ブルックリン美術館蔵
『世界ガラス美術全集1古代・中世』は、魚(Tilapia nilotica)形に作られた容器で、口の部分に黄色い口巻き装飾をつけたほかは、淡黄色無地のガラスで作られている。胴部には半透明の淡青色ガラスで、鱗状の斑文が施されているという。
素地は淡黄色の透明ガラスだろう。透明にしても半透明にしても、実物が残っているので疑問の余地がない。
貝形容器 サッカラ出土 前14世紀 鋳造、切断研磨 長11.7㎝ ブルックリン美術館蔵
同書は、淡青色透明ガラスによる貝形容器で、鋳造後に削り出して貝形に作り上げたもの。表面の風化によって褐色に見えるが、淡青色透明素地である。化粧用の道具の一つという。
風化によって透明感が失われているが、別の製法でも透明ガラスで容器が作られたということは、当時ある程度の量の透明ガラスが作られたのだろう。しかし、これ以降エジプトで透明ガラスは出土しなくなる。
透明ガラスというと、サルゴンⅡ銘入りガラス壺などが作られた前8世紀頃が最初ではなかったことになる。
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一体透明ガラスというのはどんなものだろう。
『ガラスの考古学』にローマ時代の宙吹きガラスについての説明の中で、ガラスの色も、器壁が薄くなったことや、高温処理によりガラス内のガス気泡や不純物が減少したことによって、かつての有色不透明のものから、単色透明のものへと変化したという。
ということは、高温が維持できれば、ローマ時代よりもずっと前の時代でも透明ガラスができても不思議ではなかったということになる。
また、当時透明ガラスは希少価値があるのではと思ってしまうが、ラピスラズリの代替品として作られたりするくらいなので、貴石に近い色の方が価値が高かったために、透明ガラスが引き続いて作られるということがなかったのでは。
※参考文献
「世界ガラス美術全集1 古代・中世」(由水常雄・谷一尚 1992年 求龍堂)
「ものが語る歴史2 ガラスの考古学」(谷一尚 1999年 同成社)