ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2009/01/20
纏向遺跡2 勝山古墳と東田大塚古墳は箸中山型
纏向遺跡には、矢塚古墳の北方に勝山古墳、南方に東田大塚古墳がある。
勝山古墳
桜井市教育委員会の説明板は、纏向勝山古墳は、東面する全長約110m、後円部の高さ約7mの古墳時代前期の前方後円墳で、周囲にはかっての濠の痕跡を残すように、逆台形の池がある。詳しい調査が行われていないため、築造の時期や主体部など、詳細は不明だが、墳丘の築造企画は纏向石塚・纏向矢塚・東田大塚・ホケノ山などの古墳、と同じ築造企画を持つ纏向型前方後円墳の1つと考えられ、箸墓古墳に先行する古墳になる可能性も指摘されているという。
今いるところが前方部の前面だろうか。円丘部へと踏み跡が続いている。 円丘部は竹の密生した藪になっているので、頂部まで入り込めなかった。戻って目を北東に向けると、円丘部に続く平たい盛り上がりがあった。向こうが前方部かも。 行ってみると、前方部らしきものは畑になっていて、その向こうには周濠が残っていた。周濠から見ると、前方後円墳であることがよくわかる。
『邪馬台国の候補地 纒向遺跡』は、もっとも驚いたのは、墳丘の北側のクビレ部から現れた白木の材木片に混じっている、真っ赤に朱が塗られた板きれであった。
日本古来の建築物は、伊勢神宮のイメージから白木造りと考えられており、赤や緑などの原色が建物に用いられるのは、飛鳥時代の寺院建築にはじまると言われてきたという。
いったいどんな建物があったのだろう? 後円部に回り込むと、クビレ部が曲線になっているのが確認できる。箸墓の相似形? 石野氏は、纏向勝山古墳は、全長120m余の長突円墳(前方後円墳)である。
北側の周濠の外縁周濠内に、古墳の外側から周濠のなかに投棄されたと思われる大量の土器が堆積していた。その年代は纏向4類であり、庄内式の後半に相当する。しかし、円丘部西周濠外縁内には、小面積であるが纏向1類土器が集中しており、墳丘築造の年代はもっとさかのぼる可能性がある。
残念ながら、勝山の墳頂部ならびに突出部先端は未調査なので、墳丘の正確な形や大きさはまだはっきりしないが、すくなくとも120m余の長い突起を持った長突円墳(前方後円墳)であることはたしかであるという。
石野氏は纏向型ではなく、箸中山型の古墳と考えているらしい。そして箸墓よりも古いかも。 東田大塚古墳
説明板は、全長約96m、後円部の高さ約7mの古墳時代前期の前方後円墳で、墳丘の築造企画は纏向石塚・纏向勝山・纏向矢塚・ホケノ山などの古墳と同じ企画を持つ纏向型前方後円墳の1つと考えられている。詳しい調査が行われていないため、築造の時期や主体部の内容・周濠など、詳細は不明だが、地元では後円部墳丘より石製の椅子が出たとの伝承を持ち、纏向古墳群の中で、墳丘の残りの最も良いものであるという。
しかし、みかんがなっているのが遠くからでも見える。 円丘部の中はほぼ果樹園だった。 前方後円墳というが、前方部はよくわからなかった。
石野氏は、東田大塚古墳は、桜井市立埋蔵文化財センターの調査によって突出部の形状と端部が確認され、円丘部径70m、突出部長50m余(全長120m余)の箸中山型となった。円丘部には幅20mの周濠がめぐり、埴輪や葺石はない。墳丘下には纏向4類の土坑などがあり、周濠内や墳丘築造後の排水溝には纏向4類新の土器が含まれているので、墳丘の築造時期は纏向4類=3世紀後半・末であろうという。
前方部が後円部の径より少し短いが、ホタテ型よりは長いということだろうか。 東田大塚の存在によって、全長280mの箸中山大王墓が単独で新型式の墳形を採用したのではなく、全長100m級の被葬者とともに新型式の墳形、つまりその後に継続する新王墓体制を開始したことを考えさせる。
ほぼ同時期に箸中山古墳と同型の姫路市の丁瓢塚古墳が、約1/3の規模で播磨に誕生することは、纏向型古墳につづいて箸中山型古墳が列島全体に広がることを示しているという。 石野氏は、2008年、纏向型古墳のあとにつくられた箸中山古墳(箸墓)以外に、2基の箸中山型古墳が纏向に存在することが明らかになってきた。東田大塚古墳と纏向勝山古墳である。纏向古墳群には全長90~120mの長突円墳(前方後円墳)が11基あるが、箸中山型が確認されたのははじめてである。箸中山型古墳とは、円丘部に先端部を撥型に開く長三角形の突出部を付設した墳丘墓であるという。
箸墓古墳の特徴は、私が注目している、クビレ部が曲線かどうかではなく、「先端部が撥型に開く」形だった。
箸墓古墳が卑弥呼の墓でないなら、石塚古墳・矢塚古墳・勝山古墳・東田大塚古墳のどれかが卑弥呼の墓なのだろうか。
※参考文献
「邪馬台国の候補地 纒向遺跡」(石野博信 2008年 新泉社 シリーズ「遺跡を学ぶ」051)
桜井市教育委員会作成の説明板