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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2013/03/05

釈迦金棺出現図の截金



京都国立博物館蔵の釈迦金棺出現図は、金剛峯寺蔵の応徳涅槃図(1086年)と比べると、ずっと華やかな色彩だ。截金ももっとたくさん使われていそうな気配がある。
制作時期は、『日本の美術373截金と彩色』(1997年)では応徳の仏涅槃図と制作時期の近いとし、『王朝の仏画と儀礼展図録』(1998年)では様式的にみて11世紀後半から末頃の制作であろう。この時期は、いわゆる末法が到来してからまもないころで、院政期の開始時期にも相当するという。応徳涅槃図よりも後の作品ということなので、ここでは11世紀末ということにする。

釈迦金棺出現図 絹本着色 平安時代後期(11世紀末) 縦160㎝横229㎝ 京都国立博物館蔵
『日本の美術373截金と彩色』は、応徳の涅槃図と制作時期の近い京都国立博物館の金棺出現図(京都・長法寺伝来)も同様に画面の中心をなす釈迦如来と仏母摩耶夫人、弥勒菩薩とされる立像人物の着衣および釈迦の僧伽梨衣に総截金が押されているという。
釈迦の袈裟の地文は九ツ目菱入り変り(三重)七宝繋ぎ文、主文が菊花丸文という。
金箔が剝がれて黒い線が残り、返って文様がよくわかる。截金を漆で貼り付けた跡だろうか。

截金師の故江里佐代子氏を以前にテレビで見たことがあるが、下絵は全く描かずに、2本の筆の先に截金の両端をのせて、すばやく貼り付けていくのだった。
その故江里氏は、『日本の美術373截金と彩色』に「截金の技術と工夫」という記事を寄稿されていた。
右手には截金筆を、左手には取り筆を持ち、その筆先を湿し、先ず細く切った金箔の一端を巻き付けて取り出す。施そうとする位置に接着剤(にかわとふのりを混合した溶液)を含ませた截金筆が待機する。截金筆の背に、垂らした金箔の先端を乗せ、デザインに沿って左右の筆を操りながら金箔を貼ってゆく。区切り点に達したとき截金筆(右手)は金箔の上に置き換え、やや押さえ気味にして、取り筆(左手)を優しく引き上げるとその位置で切れる。そしてこの作業は繰り返し続けてゆくことになる。金泥(金粉をにかわで溶いた液)で描いたものと截金とは一見して異なり、截金の1本1本が重なり放たれる光の美しさは魅力あるものである。
漆ではなく膠と布海苔だった。長い時代を経て黒くなってしまったらしい。

これは金剛峯寺蔵仏涅槃図の釈迦の着衣と同じで、地文が九ツ目菱入り変わり(三重)七宝繋ぎ文、主文が菊花丸文。
袈裟の襟元は、幾何学文様ではなく、草花文のような小さな文様を小さな切り箔を組み合わせて作っている。
截金文様で注目されるのは、、釈迦如来の袈裟襟や立像人物の腰布に菊唐草文が置かれていることであるという。
菊唐草文か、そういえば細い曲線がつながっている。
化仏の金色は金箔か金泥か。金箔のような気がする。
釈迦はなんといっても金棺から起き上がったので、棺は金色のはず。内底は大きな黒い丸文のある錦でも貼られていたのだろう。丸文の中には赤い色も見えるので、何かの文様を表していたようだ。
棺の内側は二重線で区切られて、8段の文様帯がある。じっくり見るとアカンサス唐草文のようだ。こちらも金色の痕跡がある。
このような金彩が金箔なのか金泥なのかがわからない。金箔だったら箔と箔の継ぎ目があるはずだが、それが見当たらないので、金泥だろう。
ということは化仏も金泥ということになる。
棺の縁に掛けられているのが僧伽梨衣、私がいつも大衣と呼んでいるもの。斜め格子文のようで、これも截金らしい。
拡大すると、格子が二重で、ところどころに小さな切り箔が見える。いや、二重線と一重線が交互に引かれ、一重線どうしが交叉する箇所に切り箔が1つずつ配されて、四ツ目文様となっている。これを辻飾り二重斜格子文というのかな。
図録の綴じ目に近いため、なかなかスキャナで取り込むのが難しいのだが、白い布の下あるいは裏側の袈裟には、小さな正方形の区画とみえる箇所に一つ一つ卍繋ぎ文が截金で表されていた痕跡が見受けられた。
摩耶夫人の着衣には地文が辻飾り格子・変り(三重)七宝繋ぎ重ね文、主文が菊花丸文のものと、辻飾り二重斜格子文の地文、主文が菊花丸文の二組がある。その外に主文のない長菱格子文、斜格子文、四ツ目菱入り七宝繋ぎ文があるという。
それぞれの文様を確認していくと(参考にした文献の図版によって色が異なる)、

襟と胸元に見える、一番外側の着物の文様は地文が辻飾り二重斜格子文、主文が菊花丸文。
地文は僧伽梨衣と同じ。
上図の柿色の上着は下図では朱色に発色している。同じ衣の続きなので、文様も同じく地文が辻飾り二重斜格子文、主文が菊花丸文。
左腿に掛かった白っぽい長衣は、地文は四ツ目菱入り変わり(三重)七宝繋ぎ重ね文、主文が菊花丸文。
緑青色の布には長菱格子文かな。
白い長衣との間の同じく白っぽい布は小さな切り箔が鏤められているが、何という文様かわからない。
主文のない長菱格子文、斜格子文などはこの辺りにあるのかな。
弥勒とされる立像人物というのは、釈迦の手前で左の人物から大盛りの枕飯を受け取ろうと手を差し出している人物のことらしい。
柿色の天衣や赤い裙などに斜格子の文様が幽かにわかる。
同書は、裳の地文は網格子文、主文は菊花丸文。主文のない四ツ目菱入り二重立涌文。そして僧伽梨衣は卍繋ぎ文、辻飾り二重斜格子文(裏)のみで主文はないという。
拡大図版のおかげで、赤い裙は地文が網格子文、主文が菊花丸文だと確認できた。
しかし、四ツ目菱入り二重立涌文、卍繋ぎ文、そして辻飾り二重斜格子文はどこにあるのかさえわからない。

京都国立博物館の平常展示館は現在建て替え工事中。
(写真はミュージアム・カフェにて。抹茶パフェの背景が建て替え中の新平常展示館)
14年に完成したら、釈迦金棺出現図などが展観されるかも。
細部の截金文様は京博で見てからということにしよう。そして、化仏などが金箔か金泥かも確かめよう。

ところが、2012年春に東京国立博物館で開催された『ボストン美術館 日本美術の至宝』展のNHKの関連番組に、『極上・美の饗宴 ボストンの日本美術超傑作② 平安の超絶ミクロアート~華麗なる仏画の秘密~』があった。
録画を見直していると、絵仏師の長谷川智彩氏が、馬頭観音菩薩像(12世紀中頃)の截金部分を復元していて、裳の截金のところどころに黒いものがあることに気づいた。
そしてその部分の截金は、上着の截金とは色が少し白っぽいという。それで智彩氏は、何枚か重ねた金箔を極細に切って使う截金の間に銀箔を挟んだため白っぽく見え、かつ銀箔が時を経て酸化したために黒くなったのだろうと、その箇所には銀箔を挟んだ截金で文様を描いていた。やはり截金は下書きなしで貼り付けていくものだった。
仕上がった馬頭観音菩薩像は、金箔だけを重ねた截金の文様部分と、銀箔を挟んだ截金のそれとでは、金の色が異なっていた。

そういうと、金箔を使うことで知られるトンボ玉作家の田上惠美子氏に、金色にもいろいろあるというようなことを教えてもらったことがあった。惠美子氏は何種類かの金箔を使っていて、銀の含まれている箔は白くて好みだが、黒くなりやすいとのことだった。その黒くなることを惠美子氏は硫化と言っていたような気がする。
銀が黒くなるのは酸化か硫化か?化け学出身の夫に聞くと「どちらでもある」という答え。

また智彩氏は、光背の唐草文は、文様部分に接着剤を付けて、上から金箔を貼り付け、乾いた所で筆で接着剤を付けていない部分を払うと文様部分が金色になる、箔押しという技法を用いていた。化仏はこの箔押しによるのではないかと思われるほど、金色が煌めいている。

幸い『ボストン美術館 日本美術の至宝』展は、関西では大阪市立美術館で2013年4月2日から開催されるので、馬頭観音菩薩像を見ることができる。

つづく

関連項目
現存最古の仏画の截金は平等院鳳凰堂扉絵九品往生図
応徳涅槃図の截金
釈迦金棺出現図
日本の仏涅槃図
截金の起源は中国ではなかった
中国・山東省の仏像展で新発見の截金は
唐の截金2 敦煌莫高窟第328窟の菩薩像
唐の截金1 西安大安国寺出土の仏像
東大寺戒壇堂四天王立像に残る截金文様

※参考文献
「日本絵画館3 平安Ⅱ」 白畑よし・濱田隆編 1970年 講談社
「国宝大事典 1絵画」 濱田隆編 1985年 講談社
「日本の美術373 截金と彩色」 有賀祥隆 1997年 至文堂
「王朝の仏画と儀礼 善をつくし 美をつくす 展図録」 1998年 京都国立博物館