ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2008/07/03
石窟庵如来坐像のような偏袒右肩の仏像は
石窟庵の如来坐像はマトゥラー式の偏袒右肩だった。この石仏に一番近い頃に造られたのは、なんといっても仏国寺の仏像群だろう。しかし、現在残っているのは、金銅仏の2体だけである。それも金箔を貼って間もないような金ぴかなので、古い物だとは思えなかった。
毘廬殿の毘廬遮那仏もマトゥラー式の偏袒右肩である。衣文、特に左半身の着衣が煩雑な感じがするのは、石窟庵のものが石仏、しかも花崗岩という彫刻しにくい素材であることと、金属の鋳造との違いだろう。
仏国寺極楽殿の阿弥陀如来坐像もマトゥラー式の偏袒右肩であるが、左肩から右脇に懸かる着衣の翻った衣文がない方がすっきりするのにと思ってしまう。
『慶州で2000年を歩く』は、唐の影響を完全に消化したものが石窟庵の石仏であった。あちこちでつくられる石仏の多くが石窟庵のものをモデルとしたという。そういうと思い当たるのが、国立慶州博物館の野外展示で並んでいる首のない仏坐像群である。頭部が欠落しているものの、ほぼ同じ様式の仏像ではないだろうか。
しかし、改めて首のない仏坐像群を見ると、偏袒右肩ではない。双領下垂式という北魏後半以来の中国式服制だったことは意外だった。服制と衣文が様式化していることを除けば、石窟庵の如来坐像とよく似た体型である。脚がころんとした塊のような感じがするのは、石窟庵のものよりも時代が下がるからだろう。 石造如来坐像 慶州南山茸長里 統一新羅(8-9世紀) 国立慶州博物館蔵
顔が大きく、石窟庵の仏のように胸を張ってはおらず、偏袒右肩の着衣もすっきりとはしなくなっている。
石仏の多くが石窟庵のものをモデルとしたため、しだいにパターン化するようになり、8世紀末になると身体の感じが固く、動きがなくなりはじめたという。
石窟庵の如来坐像以後、短い期間に様式化されていまうことがわかった。
※参考文献
「世界美術大全集東洋編10高句麗・百済・新羅・高麗」(1998年 小学館)
「仏国寺・石窟庵」(李性陀)
「慶州で2000年を歩く」(武井一 2003年 桐書房)