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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2008/06/30

石窟庵(ソックラム 석굴암)の如来坐像は統一新羅の最高峰

『世界美術大全集東洋編10』は、甘山寺の石仏によって、粒子の粗く硬い花崗岩を扱う技術が、完璧な段階に達していたことを確認できる。このような技法の発達と宗教思想の成熟が、中央集権化を強化しようとする政治目的と合致し、慶州に石仏寺(石窟庵)と仏国寺が建立されるようになる。
石窟庵は751年に建立が始まり、775年ごろに完成されたと考えられる。本尊が完成したあとに周壁彫刻をはじめとする建築物が造られたと見られ、本尊は755年ごろには完成していたと思われる 
という。甘山寺の石仏は720年頃の造立だが、この石窟庵の浮彫を含む諸仏そして主尊の如来坐像は造形において全く異質と思えるくらいな完璧さである。

石窟庵は正面からしか見られないので、奧の主室の大きな如来坐像を数m手前から眺めることになる。
バランスのとれた身体と、それに無駄な衣褶をすべて省いた衣文、そしてきりっとしまった表情が荘厳な雰囲気を醸し出している。天平勝宝4年(752)に聖武太上天皇が開眼供養を行った東大寺の盧舎那大仏とほぼ同時代に造立された。現在の奈良の大仏っつぁんは江戸時代の顔だが、聖武さんが見たのはこのような顔だったのだろうか。それとも、中国から離れて独自の仏教美術を花開かせた統一新羅と、おそらく最新流行の唐の様式を採り入れたであろう奈良の仏像とでは、かなりの違いがあったのだろう。 結跏趺坐した足の前に扇状に広がる衣端、大衣を身に着けて結跏趺坐すると本当にこのようになるのかどうかわからない。この像に装飾的という形容詞を使うとしたら、この衣端くらいのものだろう。
もう1つ気になるのはこの石仏が大衣を偏袒右肩に着ている。これは見慣れた雲崗石窟第20窟の大仏のように涼州式偏袒右肩ではなく、インド・マトゥラー風の着衣なのだ。ひょっとしてこれも直接インドからもたらされた様式かも知れないなあ。
8世紀中葉の仏像のなかで、もっとも美しくかつ最大の像で、記念碑的な存在ともいえるのが、石窟庵の降魔触地印の本尊如来坐像である。  ・・略・・  インドのグプタ様式を反映した本尊の完璧な彫刻は、正覚の象徴性とともに、仏教文化圏におけるもっとも偉大な彫刻品の一つといえようという。やっぱり直接グプタ朝の造像様式が伝わったみたいだ。 石窟庵は全く彩色されていないと思っていたが、唇に赤い色が残っている。頭部にぎっしりと並んだ螺髪も一つ一つ丁寧に彫られている。 頭光が壁面に表されているというのは正面からではわからない。そして正面から見られないものに、如来背後の十一面観音菩薩像、そして十大弟子像がある。十大弟子像は同じ方向を向いているのだ。 と思ったら、十一面観音菩薩像の左横には正面向きの弟子がいる。迦葉だろうか。
上部がドームとなっている。ところどころある出っ張りはなんだろう? 
※参考文献
「世界美術大全集東洋編10高句麗・百済・新羅・高麗」(1998年 小学館)
「仏国寺・石窟庵」(李性陀) ・絵葉書