ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2007/12/14
亀甲繋文はどこから
『藤ノ木古墳の全貌展図録』の「朝鮮半島と列島の飾履」で松田真一氏は、藤ノ木古墳の飾履と同じ構造を持つものは、伝慶州履のうちの1双と飾履塚の2例を除いて、おもに半島西部から出土している ・・略・・ 龍・鳳凰・鬼神など、中国南朝風の図像を連珠文による亀甲繋文内に飾った5世紀終末前後の飾履塚履 ・・略・・ 公州の武寧陵からは王の履と王妃の履が出土している。前者は銀の地金に鳳凰文を配する亀甲文を透彫にした金銅板を、後者は銅板に忍冬唐草文のある亀甲文を透彫にした金銅板を張ったもので、長さはともに35㎝で半島出土の履としては最長で、523年~526年に年代を絞り込める武寧王履と王妃履は、今のところ最も新しいA型履の事例と考えてよいという。
朝鮮半島では藤ノ木古墳出土の馬具に繋がる亀甲繋文の中にモチーフを入れて透彫にするという技術が、飾履に用いられていたようだ。
金銅製飾履底裏 5世紀末 新羅・慶州路東洞古墳群、飾履塚出土 韓国・中央博物館蔵
『黄金の国・新羅-王陵の至宝-展図録』は、木棺と副葬品が納められた木櫃とそれを覆う木槨が検出されている。
底板の周縁に2条の連珠文と火焔文を表現し、その内部全面を亀甲文で区画し、その内外に蓮華・鬼神・双鳥・頭人体鳥の極楽鳥と呼ばれる迦陵頻伽(かりょうびんが)・麒麟・羽を持つ魚などが表現されており、その口は長く突き出ている。このような図案はペルシアの影響を受けた中国の北魏で流行したもので、高句麗を経て新羅に流入したものと考えられる。図案だけでなく製作技法も新羅の他の飾履とは違い、外来品である可能性が高いという。
どうも朝鮮半島製ではないらしい。河上邦彦氏が中国に見る日本文化の研究「第5話 舌だし鬼面図」で藤ノ木古墳出土の馬具の装飾について、獅子や鬼があり、中には舌を出したものもあることに注目している。それが南朝(文様)→百済(馬具)→倭(馬具)との流れで考えるのが妥当というように、両者の亀甲繋文の中にあるモチーフはかなり異なっていて、それらの将来経路が示されていて興味深い。
王・王妃木製頭枕 百済・忠清南道武寧王陵出土 6世紀前半 公州博物館蔵
『日本の美術373截金と彩色』 は、武寧王陵は523年に亡くなった武寧王と526年に亡くなった王妃が529年に合葬され、中から王と王妃の頭枕と足座が出土している。王のものが黒漆と金板帯で装飾されているのに対して王妃のものは赤漆と金箔で装飾されている。とくに王妃の頭枕は全面に赤漆を塗り、輪郭を幅広い金箔で廻わし、その中にやや細い金箔で亀甲文を象り、前後両面の亀甲内に白、赤、黒、金泥で飛天、鳳凰、魚竜、蓮華などが細密に描かれているという。
王の頭枕とされているものは中央に突起があるので足座だろう。金の板で亀甲繋文が形作られていたのだから豪華だっただろうが、華やかな王妃の頭枕に目がいってしまう。亀甲の中にいろんなモチーフが表されていたらしいが、ほとんど消えてしまって残念だが、亀甲繋文はそれだけが表されるものではなかったことがわかった。金製耳飾 普門洞夫婦塚出土 韓国・中央博物館蔵
『日本の美術445黄金細工と金銅装』は、鎚金で成形した太環部は素文のままであるのが通例であるが、この耳飾は太環から下端の花弁形垂飾に至るまで総体細粒の鑞付主流で加飾している。太環部は金帯板で亀甲繋文を画し、内部に三弁花文を配するが、これに連結する吊り環も三弁花文で統一しているという。
金線で、各頂点に円を作りながら亀甲繋文を描き、金線の両側に粒金を配列してあるのだが、小さな粒金がところどころとれたり重なったりしている。三弁花文や円形のところには何も象嵌されていなかったらしい。 垂飾付耳飾 新羅・慶尚南道梁山市北亭洞、金鳥塚出土 6世紀 韓国国立博物館蔵
『黄金の国・新羅展図録』は、太環式の主環は中空で断面楕円形の円筒を丸く曲げた形で、両端はほぼ接している。表面全面には、六角形・円形・点文が順序よく組み合わされた文様が、非常に精巧に鏤金(るきん)装飾されている。細環である遊環も表面全面に鏤金で装飾され、1点には2条の波状文が、もう1点には対称になるように配された2条の連続円文が表現されるという。
鏤金とは粒金を付着させる装飾技法だろう。
一見亀甲繋文のようだが、隣接する亀甲は1つずつ独立している。そして、もっとよく見ると、亀甲形の金板がそれぞれ主環に貼り付けてあるのだった。正確には亀甲繋文ではないが、それを真似ようとしたのだろうか。「ばさら日本史」の飾履を作るで板に亀甲形を貼り付けているのと同じ方法ではないか。こちらは主環を作った後に貼り付けたのだろうが、それは粒金で亀甲繋文を作るのが技術的に難しいからだろうか。
しかし、同展図録は、新羅古墳から出土した金製耳飾の中で、非常に精巧で華麗な新羅の耳飾を代表する名品中の1つであり、完熟期にさしかかった新羅の金属工芸技術をよく示す資料であるという。
金板を貼り付ける独特の手法とみてよいようだ。
このように、飾履塚出土の飾履によって、北魏でも飾履というものがあったこと、そして亀甲繋文があったことが明らかとなった。中国には南朝・北朝に限らず亀甲繋文はあったのだ。やっぱり亀甲繋文の誕生の地は中国なのだろうか。
※参考文献
「金の輝き、ガラスの煌めき-藤ノ木古墳の全貌-展図録」 2007年 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館
「黄金の国・新羅-王陵の至宝-展図録」 2004年 韓国国立慶州博物館・奈良国立博物館
「日本の美術373截金と彩色」 有賀祥隆 1997年 至文堂
「日本の美術445黄金細工と金銅装」 河田貞 2003年 至文堂
※参考ウェブサイト
ばさら日本史の飾履を作る