お知らせ

忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2009/03/31

皇南大塚北墳出土の金製腕輪は北魏系ではないらしい

 
皇南大塚北墳(5世紀後半)出土の金製腕輪は、『世界美術大全集東洋編10』は、藍色玉・青色玉をを嵌め込んで装飾としているという。小さい石の形をそろえて象嵌してあり、金が回り、更に粒金が巡っている。そして粒金も小さく大きさがそろっている。もう一つの特徴は金の細線の両側に粒金が並んでいることだ。 そういう技法に最も近いのは、この鹿角馬頭形歩揺飾ではないかと思う。この歩揺飾は1981年に内蒙古自治区烏蘭察布盟達爾罕茂明安聯合(ダルハンムミンガン)旗西河子から出土した。
『中国☆美の十字路展図録』は、イラン系遊牧民族起源と考えられる。晋書には歩揺冠を好んだ鮮卑族慕容部の人々は歩揺と呼ばれ、これが訛って慕容部の名前となったと伝えられるという。
鮮卑慕容部が草原の道経由で交流のあったイラン系遊牧民からもたらされたこの歩揺飾は、慶州皇南大塚北墳より出土した金製腕輪(5世紀後半というのは最終的に副葬された年代)が慕容族から新羅へ贈られたイラン系遊牧民の腕輪であることを示しているのかも。
尚、この歩揺飾は象嵌されたものの色彩が豊富だが、ガラスも嵌め込まれていたという。ガラスだとしても透明ではなかったのか、風化したのかわからないが、新羅で出土する青い透明ガラスを嵌め込んだものとは異なって、枠に合った形で、しかも球状に盛り上がっていない。 同じ鮮卑族で北魏を建国した拓伐部には同じようなものはもたらされなかったのだろうか。

指輪 内モンゴルフフホト市郊外区出土 高4.2㎝ 北魏(386-534年) 内モンゴル博物館蔵
『図説中国文明史5』は、羊をかたどり宝石を嵌めこんだ金製指輪。鮮卑は匈奴の伝統を受け継ぎ、黄金製の装飾を愛好したことから、工芸品はいっそう精巧さと美しさを増し、宝石の象嵌技術は非常に高かったという。
同じ内モンゴル自治区から出土して、石の象嵌や粒金という細工は同じだが、上の2点ほどの技術の習熟がみられない。しかし類似のものは将来されていた可能性を示すものだろう。
このような技術が匈奴の伝統というのは、上の解説とまとめると、匈奴がイラン系遊牧民ということになる。しかし、まだ匈奴がイラン系かモンゴル系か結論は出ていないはず。 鍑はフン族の特徴というが、これぞ匈奴独自のものというのはあるのだろうか。

金製腕輪について詳しくはこちら
鹿角馬頭形歩揺飾について詳しくはこちら
新羅出土の盛り上がったガラスの象嵌についてはこちら

※参考文献
「日本の美術445黄金細工」(河田貞 2003年 至文堂)
「世界美術大全集東洋編10高句麗・百済・新羅・高麗」 (1998年 小学館)
「黄金の国・新羅-王陵の至宝-展図録」(2004年 韓国国立慶州博物館・奈良国立博物館)
「中国 美の十字路展図録」(2005年 大広)

2009/03/27

ガラス象嵌の金製装身具は新羅製?

 
新羅の古墳群から出土した豪華な副葬品は、どこからもたらされたのか、寄り道しながら探している。味鄒王陵地区古墳公園(大陵苑)出土の装飾宝剣は、金に瑪瑙の象嵌でフン族のつくったものらしいことがわかった(新羅の装飾宝剣とフン族)。
しかし、皇南大塚北墳(5世紀後半)出土の金製嵌玉釧フン族の象嵌と細粒細工とは全く似ていない。まず象嵌されている貴石が瑪瑙の赤一色ではないことだ。『世界美術大全集東洋編10』は、藍色玉・青色玉をを嵌め込んで装飾としているという。「玉」というのは中国で金以上のものとされる「ぎょく」のことだろうか?「玉」が貴石か「ぎょく」かわからないが、瑪瑙がないという点で、フン族とは別の集団が作った物のように思う。

腕輪 金製 皇南大塚北墳出土 韓国・国立中央博物館蔵
『日本の美術445黄金細工』は、主葬者の夫人である慶州・皇南大塚北墳からは、外周に環玉を廻らした豪華な腕輪をはじめ、5対の金製腕輪が出土したという。
環玉のものは前述したもので、遊牧民の色彩の強いものに見える。そして確かに貴石あるいは玉を象嵌している。しかもその石は薄い。
ところが、この腕輪に象嵌されているのは、薄い玉でも貴石でもない。深緑色のものが今にも落ちそうに盛り上がっている。そして不揃いだ。どうも石ではなく、同じ慶州の金鈴塚出土の耳飾り指輪と同じようにガラスが嵌め込まれているように見える。
そして、ガラス粒のはずれた金環を見ると、粒金がめぐっているのではなく、粒金のように細工した金の細い輪のようだ。それに輪の大きさもまちまちだ。 一見貴石象嵌と粒金を駆使した腕輪のように見えても、これは遊牧民のこなれた技術ではなかった。それをまねようとしたこのようなガラス象嵌の装身具は、ひょっとして新羅でつくられたのかも。

※参考文献
「日本の美術445黄金細工」(河田貞 2003年 至文堂)
「世界美術大全集東洋編10高句麗・百済・新羅・高麗」 (1998年 小学館)
「黄金の国・新羅-王陵の至宝-展図録」(2004年 韓国国立慶州博物館・奈良国立博物館)」

2009/03/24

春秋秦の雍城出土の鍑が最古?


サルマタイやスキタイより以前に鍑をつくった民族があるのだろうか。「鍑」という漢字から殷・周の青銅器から探してみたがみつからなかった。ところが、妙なところから鍑が出土していることがわかった。

ふたつの耳をもつ鍑 高19.4㎝直径18㎝ 春秋戦国時代 陝西秦都雍城出土 陝西省文物考古研究所蔵
『図説中国文明史4秦漢』は、棫陽宮(よくようきゅう)の遺跡から出土した宮殿の置き物。「鍑」は炊事用具の一種で、鍋のようなものという。
秦が中国を統一するずっと以前に都のあった雍城から出土したものらしい。置き物というのは珍しい品だからだろうか。

しかし、春秋戦国時代(前770-222年)というのはあまりにも幅があり過ぎる。
徳公元年(前677)秦、雍城に遷都、最初に大鄭宮(だいていきゅう)を建設
献公2年(前383)秦、櫟陽に遷都

とあるので、この間に製作あるいは他の国からもたらされたものだろう。
ところが、鍑が出土した棫陽宮(よくようきゅう)は秦の昭襄王(前306-251)が建てた宮殿という。そうすると、孝公12年(前350)に咸陽に遷都した後に雍城に棫陽宮殿を建てたことになってしまう。そのようなことが実際に行われたのかどうかわからないので、この鍑は雍城に都があった前677-383年の間に作られたものとしておこう。

把手に一つずつ釘状の頭状の突起があるのはサルマタイの鍑に似ているが、中国の青銅器のように、肩に帯状の文様がある。 


文様も中国風なので、中国の青銅器と比較してみよう。

山西省太原市金勝村251号墓出土 春秋後期(前6-5世紀) 山西省考古研究所蔵
『世界美術大全集東洋編1先史・殷・周』は、口縁下と下腹部に施された虁鳳文帯に挟まれて、中央に獣面文帯が巡る。虁鳳文および獣面文にはそれぞれ細かい文様があるという。
このように、春秋後期になると、文様の中に凹凸のある小さな文様を施すという複雑な作風になってしまう。螭文甗(ちもんげん) 春秋中期(前7世紀) 泉屋博古館蔵
『泉屋博古中国古銅器編』は、上の甑と下の鬲が分離するタイプの甗。文様は甑・鬲とも、肩部にS字形の双頭有舌螭龍が二重に絡んで構成されているという。
下の鬲の帯文様によく似ているので、雍城出土の鍑は春秋中期につくられたものかも。螭文三足匜(ちもんさんそくい) 春秋前期(前8-7世紀) 泉屋博古館蔵
口縁下の文様帯は、注ぎ口側付近にS字状双頭螭、中央にS字状単頭螭を配し、その間を鱗文などで埋めるという。
この三足匜の帯文様よりも、雍城出土の鍑は文様がしっかりとしている。これらから、雍城出土の鍑は春秋中期(前7世紀)に作られたとみてよいのではないだろうか。尚、春秋時代の前・中・後期の分け方は『世界美術大全集東洋編1先史・殷・周』による。 

『図説中国文明史4秦漢』は、秦人(しんひと)は東夷族(広く東部沿海に住む異民族を指す)から分かれた一派で、黄河下流の東部沿海で遊牧していたともいわれています。
殷代(前16-11世紀)、秦人は何回かに分けて甘粛省東部に移ってきて、殷王朝と同盟関係をもっていました。当時、秦人は牧畜業を主要な産業としていた。
前16世紀から前7世紀にかけて、秦は3度にわたる東への大規模な移動を経て、西戎の地から今の陝西省内にある西周のかつての本拠地に移ってき
たという。その西周の本拠地に、雍城は位置している。
そして、秦人の出自は東夷という。最初に中国を統一したのは秦なのに、何故中国人を秦民族と呼ばずに漢民族というのか不思議だったが、やっとわかった。
また、秦人は遊牧民だったので、遊牧民に受け継がれてきた儀式に必要な鍑が雍城から出土しても不思議ではなかったのだ。雍城出土の鍑が前7世紀のものだとすると、スキタイの鍑(前5-4世紀)よりも古い。
『シルクロード絹と黄金の道展図録』は、鍑は紀元前9世紀から8世紀頃に作られ初め、初期騎馬遊牧民の時代にはユーラシア草原地帯のあらゆる場所で使われるようになったという。 
鍑を最初に作ったのが殷・周以来の中原の人々でなかったとしても、秦が、あるいはもっと中原に近い漢族が、遊牧民の影響を受けて鍑をつくるようになったのかも。
とりあえず、私の知る範囲では現存最古の鍑はこの雍城出土のものである。

※参考文献
「図説中国文明史4 秦漢 雄偉なる文明」(稲畑耕一郎監修 2005年 創元社)
「図説中国文明史3 春秋戦国 争覇する文明」(稲畑耕一郎監修 2007年 創元社) 
「泉屋博古 中国古銅器編」(2002年 泉屋博古館)
「世界美術大全集東洋編1先史・殷・周」(2000年 小学館)
「シルクロード 絹と黄金の道展図録」(2002年 NHK) 

2009/03/20

フン以前の鍑(ふく)はサルマタイとスキタイ


 
『世界美術大全集東洋編15中央アジア』は、フンの領域でしか発見されないはずのものに、青銅製の鍑がある。青銅製の台付きあるいは脚付きの鍑は、草原地帯ではスキタイ時代から祭儀用に使われているという。

鍑口縁装飾 サカ(前5-4世紀) 径31㎝ 新疆ウイグル自治区イリ地区新源県キュネス川南岸出土 ウルムチ市新疆ウイグル自治区博物館蔵
古代の遊牧民が儀式の際に用いた鍑(釜の一種)の口縁部にかぶせた装飾は、2頭のグリフォンが向かい合っている構図はオクサス遺宝の腕輪と同じであり、ライオンの頭に曲がった角を生やし、翼が反り返っている点もペルシアのグリフォンの基準を満たしている。しかし、このような鍑の装飾はペルシアでは使われず、もっぱら遊牧民のものであるので、これはこの地の遊牧民、おそらくサカが作ったものと考えることができるという。
サカつまりスキタイの鍑の口縁部だけが出土したらしいが、フン族の鍑とは似ても似つかない口縁部だ。『南ロシア騎馬民族の遺宝展図録』にはサルマタイのものが幾つかあった。サルマタイ(前3-後3世紀)の金工芸品は、ほとんど遊牧民の首長クラスの墳墓から発見されたものであるという。

鍑 前4世紀末~3世紀初 高41㎝ ロストフ州出土 アゾフ博物館蔵
動物の装飾はないが、ひょっとするとスキタイの鍑かも知れない。把手は丸く、3つの突起がある。 鍑 前1世紀後半 高47㎝ クラスノダル地方出土 クラスノダル博物館蔵
口縁部に鹿が1頭いる。把手に中央に釘の頭のような突起と、両肩に牛の角のようなものがついている。サルマタイになると、肉食獣から草食獣になるのだろうか。 鍑 後1世紀 高30.5㎝ クラスノダル地方出土 クラスノダル博物館蔵
把手の3つの突起は釘の頭状である。
鍑 後1世紀 高58㎝直径40㎝ ロストフ州出土 ロストフ博物館蔵
こちらも把手に3つの釘の頭状の突起がついている。この突起がフン族のキノコ形突起になっていくのではないだろうか。 鍑(釜) 後1~2世紀 全高28㎝、胴部直径24.4㎝ ロストフ州出土 アゾフ博物館蔵
把手が4つ付き、そのうち2つは水牛の形をしているという。
水牛が向かい合っているのは面白いが、釘の頭状の突起がないなあ。 ロストフ州は黒海の北東にあるアゾフ海付近、クラスノダル地方は黒海東部に位置する。 そんなに中国と遠いのに、何故この青銅器の名称が「鍑」という中国語なのだろう。

※参考文献
「南ロシア騎馬民族の遺宝展図録」(1991年 朝日新聞社)
「世界美術大全集東洋編15 中央アジア」(1999年 小学館) 

2009/03/17

フン族に特徴的なものは鍑(ふく)らしい

 
『世界美術大全集東洋編15中央アジア』は、フン族以外には用のない儀礼的性格の強いもの、すなわち交易品として他国に流出することなく、フンの領域でしか発見されないはずのものに、青銅製の鍑がある。青銅製の台付きあるいは脚付きの鍑は、草原地帯ではスキタイ時代から祭儀用に使われているが、フン時代には器形、装飾ともにきわめて特徴的な鍑が出現する。まず器形は胴部に膨らみがない寸胴型で縦長であり、把手は方形であるという。
鍑(ふく)はフン族のものだったのか、ふ~ん。

『シルクロード絹と黄金の道展』で新疆ウイグル自治区出土の鼎を見た。前5~3世紀と言えばシルクロードが開通する前である。よく見ると、「鼎」ではなく「三足鍑」となっていた。

三足鍑 青銅 ニルカ県出土 前5~3世紀
同展図録は、草原地帯の初期騎馬遊牧民によって用いられた青銅器のうち、容器類はこの鍑と呼ばれる種類だけである。鍑は紀元前9世紀から8世紀頃に作られ初め、初期騎馬遊牧民の時代にはユーラシア草原地帯のあらゆる場所で使われるようになった。鍑の標準形は深鉢形の器体にふたつの把手が立ち、圏足が付くものであるが、それぞれの地域によって特色があり、また時期によっても異なった特徴を持っている。この鍑は圏足の代わりに3本の曲がった足を持ち、ふたつの把手は口縁の上ではなく、肩のあたりに水平に付けられ、小さな耳が把手の間に垂直方向に付けられる。これらの特色は、新疆ウイグル自治区とその西のカザフスタンに分布する鍑に特有のものという。
足は獣足を象った物に見える。この3本の足は、中国となんらかの交流があって、「鼎」に影響を受けたものだろうか。
同展で、もう1つ鍑を見つけた。3本の足のない、こちらの「鍑」の形が非常に印象に残った。

鍑 青銅 復元高71㎝口径39㎝ 新疆ウイグル自治区ウルムチ市南山出土 4~5世紀
口縁の上に立ったふたつの把手は方形で、その上に3つのキノコ形の装飾が立っている。把手の両脇にもキノコ形の装飾がある。これは遊牧民によって広く用いられた鍑の一種で、その中では、かなり後出の型式である。東ヨーロッパのドナウ川流域などにおいて、これとほぼ同様の鍑が10点以上知られており、フン族の使用した鍑と考えられている。またこの型式の鍑には、中国の北辺やモンゴルで見出される紀元前後頃の鍑と型式的に相通ずる所がある。このウルムチ出土の鍑は、この型式では飛び離れて東方で発見された例であり、それをどう解釈するかについて議論が分かれているという。
「キノコ形の装飾」は象嵌・粒金細工の装飾品にもあったなあ。キノコに見えても樹木をデザインしたものではなかったのだろうか。 よく似た鍑があった。

鍑 青銅 (描き起こし図)高34.5㎝ ロシア、オレンブルグ、クィズィル・アディル出土
『世界美術大全集東洋編15』は、この把手の上に三つないし四つのキノコ形突起がつき、把手の左右にも同じ突起がつく。胴部は隆起線で4分割され、上の水平の隆起線から玉飾り状の装飾が並んでいることもある。キノコ形突起はフンの王族の頭を飾っていたと思われる王冠の装飾にも見られるため、王権を象徴化したものとする説もある。この説に立てば、キノコ形突起のついた鍑は王族の所有物で、ついていない鍑はそれ以下の階層のものということになるという。
キノコ形突起は王族の所有を表すものだったのか。 鍑 青銅 高88~89㎝径46~48㎝ ハンガリー、ペシュト、テルエル出土 ブダペスト、ハンガリー国立博物館蔵
現在確認されているフン型鍑のなかでもっとも大きく、重量は41㎏にも達する。火を受けた跡があることから、肉入りスープなどを煮るための容器であることは明らかである。しかし寸胴型で底に火の当たる面積が少なく、しかも支えるものが脚ではなく孔の開いていない台であるため、底の中心には火は当たらない。このような非効率的な道具は実用的とは思われず、儀礼の際にのみ使われる道具ではないかと推測されるという。
やっぱり鍑は祭器だったのか。  フン族の鍑の点数はそれほど多くはない。ほぼ完全な形に近いものが10点あまり、それに破片だけのものを含めても20点ほどしかない。その出土地はドナウ川中下流域など東ヨーロッパに多いが、東のほうでは黒海北岸、北カフカス、ヴォルガ川(当品)、カマ川流域に散見される。従来は、ヴォルガ川より東方ではもはやフン型鍑は発見されないと思われていたが、その常識が近年打ち破られつつある。まず一つはウラル川中流のクィズィル・アディル出土の鍑、つぎに銅鍑を模して作られた土製の鍑がシル川下流のアルティン・アサルから出土したという。
キノコ形突起がないので、王族のものではなかったらしいが、上のハンガリー出土の胴部とよく似ている。
そしてこれらよりはるかに東方、中国新疆ウイグル自治区の主都ウルムチ南方の南山地区で、キノコ形突起のついた鍑が発見されたのである。ウルムチ鍑のほうがオリジナルで、さまざまな要素が個々にウラル川・ヴォルガ川・ドナウ川の流域に広まったと解釈するほうが自然であろう。ただし、それらの要素に東と西の差がほとんど見られないことから、その広がり方はかなり急速だったのであろう。とすれば、フンの直接的起源は中央アジア北部にあり、その勢力はそこから急速に拡大したと考えることができるという。匈奴はもっと東の方から出た部族だったような・・・

キノコ形装飾のついた帽子垂飾は、キノコ形の装飾がついた鍑と同様に、フンの王族のものだったといってよいのだろうか。
 
※参考文献
「シルクロード 絹と黄金の道展図録」(2002年 NHK)
「世界美術大全集東洋編15 中央アジア」(1999年 小学館)
「季刊文化遺産12 騎馬遊牧民の黄金文化」(2001年 (財)島根県並河万里写真財団)

2009/03/13

フン族の象嵌と細粒細工


フンと言えば、375年の民族の大移動のきっかけを引き起こした民族である。『クロニック 世界全史』は、ロシア内陸部を根拠地としていた遊牧民族のフン族が、騎馬の響きもたけだけしく、ヴォルガ川を渡って西に進んできた。この脅威から逃れようと、ドナウ川北岸の西ゴート族約6万人がローマ領内に侵入を開始した。これが「ゲルマン民族大移動」の発端である。  ・・略・・ 
382年、アラリックを王に立て、イタリア攻撃などをへて、410年ついにローマ市を占領する
という。
『世界美術大全集東洋編15中央アジア』は、フンが匈奴と同族かどうかという問題は、以前から多くの研究者によって議論されているが、諸説を総合して妥当な見解をまとめると、次のように要約できるだろう。2世紀に中央アジア北部に移動していた匈奴の一部あるいは匈奴とつながりのあった部族が、西進する過程でさまざまな民族を包含し、東ヨーロッパに現れたときには、当初の「匈奴」は支配部族ではあったが比率のうえではすでに少数派になっていたであろうというものである。
フンの征服過程をたどっていくと、別の部族を追い出すのではなくつぎつぎと飲み込んでいく、すなわち玉突きではなく雪だるま式拡大とでもいったほうがふさわしい。フンの最盛期の中心は従来ハンガリーあたりにあったとされているが、それも荒らし回られたという被害者意識の強いヨーロッパ中心史観の産物である
という。
フン族が作ったとされる粒金や象嵌細工は他にも発見されている。
 
獣頭形首輪装飾(1対) 銀・ザクロ石 カザフスタン、カラ・アガチ出土 フン(4世紀末~5世紀) エルミタージュ美術館蔵
この装飾を首輪の先端飾りとみなす根拠は、サルマタイ時代に首輪の先端を動物あるいはその頭で飾る例が多いことにある。きわめてよく似た金製の装飾が西北カフカスのスタヴロポル市近くで発見されているという。
こちらにも細粒装飾があるが、素材は銀という。ということは、粒金だけでなく、粒銀細工もあったようだ。金の粒を並べて三角形にするというのは他にも見たことがある。技術としては精巧さに欠けるが、丸いザクロ石の間を上下対称の三角形で埋めたり、両顎に歯のように小さな三角形を並べたり、面白い作品に仕上がっている。  キノコ形装飾冠(部分) 金・青銅・ザクロ石 ロシア、ヴォルゴグラード、ヴェルフネ・ヤブロチノ出土 エルミタージュ美術館蔵
『騎馬遊牧民の黄金文化』は、フンの金製品は、筒形ではなく平らな金板(ディアデムなどは芯が青銅でそれに金の薄板を被せてある)に象嵌や細粒細工を施したものの方が多い。
西方ではディアデムの上にキノコ形の装飾が連なる例もある
という。
キノコ形というのは樹木形の変化ではないのだろうか。こちらは極小の粒金を整然と並べてあるが、象嵌した石が不揃いなため、粒金の三角形も不揃いとなっている。  帽子垂飾(1対) 金・銀・貴ザクロ石、鑞付け、細粒細工 ロシア、スタブロポリ地方、ゼレノクムスク市破壊された墓出土 4世紀末 スタブロポリ博物館蔵
『騎馬遊牧民の黄金文化』は、西方には「し」の字形に丸めた本体に放射状装飾を付けたものもあるが、これはこめかみ飾りではなく胸飾りとする説もあるという。
銀は細粒細工に使われているのだろうか。上の冠の平面的なキノコ形の装飾が、こちらでは立体的なものになっているし、ザクロ石の大きさは揃っていないが、こちらの作品の方が成熟度が高い。 
『世界美術大全集東洋編15』は、サルマタイ時代には小さい青いトルコ石を多用し、それに赤いザクロ石や珊瑚などを混ぜる多色象嵌が特徴であったが、フン時代になると一つ一つの象嵌が大ぶりとなり、色もザクロ石や紅玉髄など深紅が基調となるという。
不揃いでも大きいことに意義があったのだろうか。それにしても装飾宝剣とは象嵌の完成度がえらく違うなあ。 実際には、フンはカフカスを越えてアルメニアやローマ帝国の東方属州へも侵入し、またカスピ海の東側を回ってペルシアへも侵入している。ということは、彼らの占領領域が黒海北岸、カスピ海北方から、カザフスタン草原までも覆っていたということになる。そして彼らの残した考古学遺物もこれらの地域から出土しているという。その遺物とは?

※参考文献
「世界美術大全集東洋編15 中央アジア」(1999年 小学館)
「季刊文化遺産12 騎馬遊牧民の黄金文化」(2001年 (財)島根県並河万里写真財団)
「クロニック 世界全史」(1994年 講談社)

2009/03/10

新羅の装飾宝剣とフン族

 
慶州、鶏林路14号墳の小型の積石木槨墳から出土した装飾宝剣は、瑪瑙の大きな象嵌が特徴的だが、粒金細工もすごい。大小の粒金を平面的に並べただけでなく、部分的には何層も立体的に積み上げたように見えが、本体の木材が腐食して凹んだためだということが、MIHO MUSEUMで始まった2009年春季特別展「ユーラシアの風 新羅へ」で見てわかった。やっぱり百聞は一見にしかずです。

『世界美術大全集東洋編10』は、フン族のアッチラ帝国で大いに流行したもので、ドイツから西シベリアまで広く分布している。遠く東ヨーロッパや西域で流行した多彩色技法で製作されたという 。 よく似た剣鞘がカザフスタンでも出土している。

鞘飾り金具 金・銀・ザクロ石・練り物 カザフスタン、コクチェタウ、ボロヴォエ湖付近出土 フン(5世紀末~6世紀初) サンクト・ペテルブルグ、エルミタージュ美術館蔵
慶州出土のものよりも黒っぽく見えるのは、銀が使われているためだろうか。大きな粒金の並んだ間にある細粒が銀なのだろうか。
「黄金の国・新羅展図録」は、キジル石窟の壁画には装飾宝剣を装着した姿が描かれているという。

供養者像 7世紀 新疆ウイグル自治区、キジル石窟第69窟主室前壁上方、鹿野苑説法図
『中国新疆壁画全集克孜爾2』の中国文を適当に解釈すると、前者は男性で環帯と佩短剣を着け、後者は女性。頭光があるが、仏国の人物ではなく、亀茲(キジ)国の貴族あるいは王と王妃という。
剥落してわかりにくいが、宝剣の中央部がふくらんでいて、上の2つの形に似ている。象嵌や粒金で華麗に装飾されたフン族の装飾宝剣が新羅に伝来しているのなら、もっと近い亀茲国にも伝わっていたとしても不思議ではない。 
第69窟にはこの像とは別に、実在の王スヴァルナプシュパが描かれていることがわかっている。
『キジル大紀行』は、即位したのは、7世紀初頭であった。スヴァルナプシュパ王は生涯を平和外交で通すが、624年に亡くなった。王位はその子スヴァルナデーヴァが継いだ。 
647年、スヴァルナデーヴァ王も没し、その弟ハリプシュパが王位を継ぐが、その王位継承の分裂につけこんで唐は亀茲国に軍隊を進め、翌648年、ハリプシュパは最後の国王として唐の軍隊に捕らえられたのであった。つまり、第69窟(特1号洞窟)に描かれた国王は、唐の支配下に置かれる以前の亀茲国最後の王となったハリプシュパの父親なのである。
スヴァルナデーヴァ王は、628年に玄奘三蔵が亀茲国を訪れたときに、玄奘を手厚くもてなした国王である
という記述から、同窟は7世紀前半に開かれたと思われる。
キジル石窟に描かれた剣の鞘は下部が撥形に開いていて、慶州鶏林路出土の装飾宝剣とはだいぶ形が異なる。もっと異なるのは時代であるが、壁画が描かれたのが7世紀としても、宝剣が亀茲国に伝来したのはもっと以前のことかも知れない。それとも、下部の形状の違いは時代の違いかも。
フン族はいつ頃までこのような宝剣をつくっていたのだろう。

「ユーラシアの風 新羅へ」展はMIHO MUSEUMの後、岡山市立オリエント美術館古代オリエント博物館に巡回されるらしい。

※参考文献
「世界美術大全集東洋編15 中央アジア」(1999年 小学館)
「季刊文化遺産12 騎馬遊牧民の黄金文化」(2001年 (財)島根県並河万里写真財団)
「世界美術大全集東洋編10高句麗・百済・新羅・高麗」 (1998年 小学館)
「黄金の国・新羅-王陵の至宝展図録」(2004年 奈良国立博物館)
「中国新疆壁画全集 克孜爾2」(1995年 新疆美術撮影出版社)
「シルクロード キジル大紀行」(宮治治他 2000年 NHK出版) 

2009/03/06

新羅の積石木槨墳群から出土する耳飾や指輪に粒金細工

 
新羅の都慶州では金冠冠帽冠飾銙帯と腰偑などの大量の金製装身具が大型の積石木槨墳から出土した。これらを図録にしろ見ていると、原料の金はどこから調達したのだろうといつも不思議だった。
『日本の美術445』は、現在もなお産出した場所は特定できないという。王陵と目される慶州の積石木槨墓の中には未調査の古墳もかなり残っており、まだまだ未知数の部分が多いはずである。
北方騎馬民族が活躍の舞台として往来した草原の道(ステップロード)の途中には、モンゴル語で「金の山」と称された、最大の金の産地アルタイ山脈がある。黒海北岸を中心に生み出されたスキタイの黄金製品も、ここで採掘された金が使用され、各地にもたらされたといわれている。したがってその一部が鮮卑族など北方騎馬遊牧民の手を介し、交易品として朝鮮半島まで及ぶことも充分ありえたに違いない。朝鮮半島の黄金製品に北方系要素が看取されるのも理由の一端はここに起因しているのである。
そのルートを解明してこそ、はじめてユーラシア大陸を横断して朝鮮半島の新羅に至りさらには倭国にまで波及した、気宇壮大な黄金文化伝播の様相を辿ることができる
という。
しかし、高句麗や百済では、新羅ほどの金製品は出土していない。高句麗系の冠は5世紀中葉とされる皇南大塚南墳から出土したが銀製だった。現在のところ新羅最古の金冠は5世紀、
銀冠よりも以前に制作されたとみられているようで、皇南大塚のある邑南古墳群の南に位置する校洞から出土している。
朝鮮半島の三国時代、高句麗という国が半島の付け根から中程までの版図を持っていたのに、遊牧民が高句麗を素通りして、新羅にのみ大量の金あるいは金製品を運べたとは思えない。

ところで、多くの積石木槨墳から金製の耳飾りや指輪も出土している。できたとすれば、中国の五胡十六国時代、中国東部の鮮卑系の小国から、船で運ぶ海上ルートがあったのだろうか。

垂飾付耳飾 金製 天馬塚出土 6世紀 国立慶州博物館蔵
『黄金の国・新羅展図録』は、中間飾と垂下飾が一連のもので、高句麗の耳飾と類似した製作技法がみられる。表面全体は細長い菱形による金板の突起と鏤金により装飾されているという。鏤金は粒金細工のことで、金冠などにはなかった装飾技法だ。このような粒金による線状の装飾をみていると、金冠の打ち出しによる列点文は粒金細工を模したものではないかとも思う。
「金板の突起」には、皇南大塚北墳出土の金製嵌玉釧のように、貴石がはめ込まれていたのかも。 太環耳飾 金製 夫婦塚出土 6世紀前半 ソウル、韓国国立中央博物館蔵
『韓国の古代遺跡1新羅篇』は、普門洞夫婦塚(プブチョン)は丘陵上に築かれている。夫墓は積石木槨墳で、地山を約5.4X1.4m掘り下げて墓壙をつくり、木棺を据える。耳飾り・指輪・釧・土器が出土している。婦墓は横穴式石室墳で、追葬されたものである。2基とも積石木槨墳として築造されたのであり、横穴式石室墳が築造される以前の6世紀中葉ごろまでは、この地域においても主要な墓制であったものと推定されるという。
『日本の美術445』の解説はこちら
この耳飾りは素人目には、貴石を象嵌するには、天馬塚出土の耳飾に比べて輪郭の金線が低すぎるように思う。実用のための金線も装飾の一つになってしまっているようだ。耳飾  金製 銀鈴塚出土 6世紀前半 韓国国立中央博物館蔵
耳飾りになっているが、作りは鈴のようだ。そして粒金ではなく、金線を粒金が並んでいるようにみせかけた細線細工になっている。
丸い貴石を囲むのも同じ擬似線だが、上の2点と比べると、金線と粒金という組み合わせが簡便化されたものといえる。また、貴石ではなく、ガラスが象嵌されている。指輪 金製 金鈴塚出土 6世紀前半 韓国国立中央博物館蔵
上の指輪は、貴石に金線を巻き、その周囲に粒金を並べて四花文としている。その下も同じもので、貴石がはずれてしまったように見える。しかし、貴石は金線の輪郭に合っていない。貴石ではなく、ガラスを溶かしてはめ込んだように見える。 指輪 金製 奈良、新沢千塚126号墳出土 
『日本の美術445』は、細い帯状の金線を環状にしつらえ、正面になる部分に半球状の鋺形を鑞付けしたのち、その表面に細粒と帯板で四弁花文を象っている。弁内は剥落しているが、当初は嵌玉であったと想定される。形状といい嵌玉を意図した細粒細工の花形文様といい、極めて西方風であるのが特徴的であるという。
この指輪は金鈴塚出土の指輪とよく似ている。しかし、金鈴塚の指輪はリングの部分が完成度の高い物なのに対して、新沢126号墳の指輪のリング部分は金板を切っただけのもので、技術的には稚拙なもののように思える。金製品が倭国の古墳に登場してくるのは、倭国が朝鮮半島の三国や伽耶と積極的に交流関係を保つことになった5世紀中葉、ちょうど古墳時代後期に入った頃からである。
奈良・新沢千塚126号墳は5世紀後半前後に造られたとみられているが、各種の金製装身具を副葬した最初の古墳である。金製装身具は新沢千塚108号墳や109号墳からも垂飾付耳飾を出土しており、その金製品はいずれも三国時代朝鮮半島製であることが、韓国出土の類例に徴して確かめられている。
したがって新沢千塚古墳群は、まさに朝鮮半島からの渡来人集団が築造した群集墳だったのである。とりわけ質の高い各種の金製装身具を埋葬していた126号墳は、規模の点では目立つ存在ではないものの、集団を統率した人物が被葬者であったことは疑う余地がない
という。
そうだとすると、古墳の形も異なるし、大きさが全く違う。慶州の巨大な積石木槨墳を見学した今では、違和感があるのは否めない。新沢千塚古墳群の分布図はこちら

新沢千塚126号墳の金製品はこちら。歩揺冠はこちら。ガラスはこちら

※参考文献
「日本の美術445黄金細工と金銅装」(河田貞 2003年 至文堂)
「韓国の古代遺跡1 新羅篇(慶州)」(森浩一監修 1988年 中央公論社)
「黄金の国・新羅-王陵の至宝展図録」 (2004年 奈良国立博物館)
「海を越えたはるかな交流-橿原の古墳と渡来人-展図録」(2006年 奈良県立橿原考古学研究所付属博物館・橿原市教育委員会)
「金の輝きガラスの煌めき-藤ノ木古墳の全貌-展図録」(2007年 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館)

2009/03/03

慶州天馬塚で出土した金製附属具は内帽の揺帯?


天馬塚では金冠の他にも附属具とされるものが出土した。中央の16個は金冠からはずれた歩揺かも知れない。外側の歩揺のついた細い金線が、瑞鳳塚の金冠についていた鳳凰飾りを支える内帽形の骨格を作る揺帯に似ている。
しかし、その間にある角の輪郭のようになっているものはわからない。遼寧省憑素弗墓(太平7年、415)出土の金歩揺冠を支える揺帯に似ているような気がする。 『世界美術大全集東洋編3』は、石槨墓の墓主・憑素弗は、十六国の一つ北燕(407~436)の王馮跋の弟であった。北燕は、鮮卑系の後燕を継いで漢民族の将軍・馮跋が建てた王朝であり、都とした龍城(遼寧省朝陽市)は北辺、契丹などの遊牧民の地であった。馮氏の出自と政策ゆえに漢文化への傾斜が強かったようだが、地勢、時勢、ともに外界からの刺激にさらされていたという。
憑素弗墓出土の金歩揺冠に似たものが、同じ遼寧省より出土している。

金製歩揺付冠飾 遼寧省房身2合墓出土 遼寧省博物館蔵
『日本の美術445』は、房身2号墓では方形冠飾のほか、木の葉形の歩揺を金板に着し、いかにも聖樹を連想させるような金製冠飾とやはり歩揺付の金製帯板が出土しているから、三点一具をなして一つの冠を形づくっていたようであるという。 
形は似ているが、瑞鳳塚出土の金冠の歩揺飾のように頭頂部を飾るものではないようだ。同墓出土の方形冠飾はこちら 内蒙古自治区からも、歩揺飾が出土している。

鹿角馬頭形歩揺飾 3-5世紀 高19.5㎝幅12㎝ 1981年内蒙古自治区烏蘭察布盟達爾罕茂明安聯合(ダルハンムミンガン)旗西河子出土 内蒙古自治区博物館蔵
『中国☆美の十字路展図録』は、金の鋳造で複雑に分岐した角をつける馬頭を作り、耳の輪郭及び鼻柱や角などを金の細粒で装飾し、石やガラスを象嵌している。角の先端につけられた桃形金葉の輪郭は刻点連珠文装飾の効果を出している。これは一組の冠飾の内の一つで馬頭形及び牛頭形飾が各々一対ずつ発掘された。辺境から匈奴の故地へと導いた鮮卑の始祖神話の神獣は馬に似、声は牛に似ると伝えられるが、これらはそのような神獣の辟邪祥瑞の意味合いを担っていたのであろう。金の桂枝や獣形をつけた冠飾(歩揺)付の冠は後漢書にも見られるが、イラン系遊牧民族起源と考えられる。晋書には歩揺冠を好んだ鮮卑族慕容部の人々は歩揺と呼ばれ、これが訛って慕容部の名前となったと伝えられるという。牛頭形飾はこちら
歩揺付の冠がイラン系遊牧民の起源とすると、その人々の居住地区はシベリアだったのだろうか?また、鮮卑族のうち北魏を建国したのは拓跋部だが、他にもいろんな部族があったようだ。中国から見れば東北部に、朝鮮半島から見れば西方に居住していた鮮卑族は慕容部だが、歩揺からその部族名がついたとは知らなかった。  『日本の美術445』は、いずれも4世紀中葉から5世紀初頭に比定される遺品であり、6世紀前半の武寧王陵王妃棺出土冠飾に先行する黄金製冠飾の北方作例として注目される。
特に房身2号墓からは3件の冠飾のほか、多岐にわたる黄金製品が副葬されており、古代鮮卑族の墓であることから、鮮卑族の黄金尊重のさまが偲ばれるとともに、黄金文化伝播の役を担った北方遊牧民達の活動の実体が彷彿とさせられる
という。
武寧王陵出土の方形金製冠飾はこちら

これらは樹木形や鹿角形というシベリアのシャーマニズムの要素を持っているが、新羅式金冠ほどの大きさはない。ずいぶんと簡便になっているとも見えるが、それは鮮卑族の好みだったのだろうか。

※参考文献
「韓国の古代遺跡1 新羅篇(慶州)」(森浩一監修 1988年 中央公論社)
「図説韓国の歴史」(金両基監修 1988年 河出書房新社)
「黄金の国・新羅-王陵の至宝展図録」(2004年 奈良国立博物館)
「世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝」(2000年 小学館)
「国立慶州博物館図録」(1996年 通川文化社)
「中国☆美の十字路展図録」(2005年 大広)
「日本の美術445 黄金細工と金銅装」(河田貞 2003年 至文堂)