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忘れへんうちに 旅編に、中央アジア各地の旅に続いて、イランの旅を記載し始めました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2008/03/20

法隆寺金堂にも高句麗から将来されたもの


五重塔の東に金堂が並列している。『国宝法隆寺展図録』によると、隅の肘木には大きな力がかかるため、後世に軒支柱が立てられているらしいのだが、それに龍を巻き付けたのは江戸時代のことだった(法隆寺の龍)。目障りだが、それよりも見たい物がたくさんあるので気にならなかった。

五重塔は裳階の上で邪鬼が軒を支えていたが、金堂では獅子が支えている。

同展図録によると、金堂の裳階は土台の上に角柱を立て台輪を置き、大和葺の板屋根をのせる簡略な構造で、薬師寺東塔の裳階とは異なる。板屋根を受けるために柱上に組物は組まず、肘木を柱に挿してその上に三斗を置いて出桁を受け、隅では直角方向にのみ肘木を出す。この挿肘木の技法は同時代に類例がないが、中国では後漢の明器等にも見られる古い技法であるという。確かに、挿肘木と斗栱という組み合わせは後漢の明器にありましたなあ。


金堂の正面には、五重塔と同様に礼拝石がある。こちらも石板ではなかった。


金堂の上層の四周に置かれた高欄は地覆と平桁の間に卍崩しの組子を入れ、これを平三斗と中備(なかぞなえ)の人字形割束(にんじがたわりづか)の腰組で受けたもので、中門も同じ形式をとる。五重塔では腰組が省略されている。
この高欄の意匠をはじめ、飛鳥様式の源流は4世紀から7世紀にかけての中国大陸の石窟・石造建築や壁画に求められる。雲斗・雲肘木の形は、直接の源流となるものはないが、北魏の雲崗石窟や後漢の明器等に類例がある。45度方向にのみ出る組物は後漢時代の明器に、卍崩し高欄や人字形割束は北魏の雲崗石窟を初め唐の永泰公主墓壁画等に見られ、皿斗も北魏に流行したものである。このように飛鳥様式は、ある時代の様式を一括して輸入したものではなく、むしろ特徴の大半が高句麗の古墳壁画等に多く見出せることから、直接は朝鮮半島からもたらされたと考えられている
という。そうそう、平三斗と人字形割束は雲崗で確認しました。後漢の明器に45度方向にのみ出る組物があったけれど、その他のものは気がつかなかったなあ。
高句麗を経由したものには、飛鳥寺の一塔三金堂式伽藍配置や、5世紀中葉の新沢千塚126号墳他から出土している歩揺など、結構いろんなものが長期にわたって将来されているのだなあ。


金堂は天智9年(670)焼失後まもなく再建が開始され、  ・・略・・  金堂と塔で隅の尾垂木上の十字に組まれたを比較すると、外形は同じであるが、金堂には側面に雲形の彫物があり、五重塔にはない。この違いは金堂と塔の造営年代の差を示しているという。確かに細い線刻が残っている。


瓦は痛みやすいので、どんどん更新されるものである。法隆寺は鴟尾ではなく鬼瓦だった。若草伽藍址出土の鬼瓦は鬼面ではないが、以降の鬼瓦は鬼面で、時代が下がるにつれておどろおどろしくなっていく。表情だけでなく、瓦という平面から外へ盛り上がっていくのだが、現在のものはそこまですごくはない。昭和の大修理のときにでも更新されたのだろうか?
金堂の風鐸も鳴っていなかった。日本の風鐸は鳴らないようにできているのだろうか?


8世紀に入ると、鬼瓦の名にふさわしく、鬼面文を笵型で作る。平城京の鬼瓦は外縁に沿って大柄な巻毛をめぐらす城宮式鬼瓦と下顎を表現せず外縁に珠文をめぐらす南都七大寺式に分けられるが、本例は後者で、8世紀中頃のものという。今の鬼瓦は奈良時代のものを参考にして、もっと目と鼻を出したのかも。


金堂は昔は西側から入って東側に出たと思うが、今回は東側から入って西側へ出た。中は薄暗いので懐中電灯が用意されているが、とても光が届かない。


しかし、現在は金堂の須弥壇にひびが入ったとかで、仏像などは別のところに移されているはずだ。修理期間中に奈良国立博物館で、「国宝 法隆寺金堂展」が開かれ、四天王像が法隆寺の外で初めて4躯そろって展示されるらしい。しかし4躯そろうのは6月14日~7月21日のごくわずかの間ということなので、その機会を逃さず、是非見てみたいものだ。他にどんなものが展観されるのだろう?奈良博のウェブサイトにはまだ詳しいことが載っていない。

※参考文献
「国宝法隆寺展図録」 1994年 NHK