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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2012/01/21

ネムルート山の頂上は本当に墓か

ネムルート山の山頂はアンティオコスⅠの墓だと言われている。
ネムルート山東のテラスはこちら 西のテラスはこちら
それは言い伝えではなく、東のテラスと西のテラスの神々の玉座の裏側に刻まれたギリシア文字による碑文に記されているという。
この裏側に碑文があったらしい。
『コンマゲネ王国ネムルート』は、スタンレー・M・バースタインの英訳より和訳してみると・・・
神々の祝福に満たされた 長い命を生きてきた
父祖の王国を受け継いだ余アンティオコス 余の王座はすなわち
すべての神々のおわす王座と定める あらゆる技をつくして 神々の姿を造ろう
幸いに満ちた 我が祖先のルーツたるペルシアとギリシアに古くから伝わるように  ・・略・・
尊き王者には 格別の栄誉を贈るべし それゆえに 天の王座に近く
時の流れに損なわれることもない この峰を 神聖な安らぎの場と定めよう
神の恩寵をこうむった余の敬虔な魂が 天帝ゼウスオロマスデスの みもとへと 旅立つとき 余の老いた肉体は ここで永遠の眠りにつこう
そして この聖なる場の 我が祖先の偉大な友である すべての神々の像ばかりでなく デーモンの像(守護神としてのワシとライオン)もまた この山を霊峰とし 永遠に続く余の信仰の証しとなろう ・・略・・ と続く。
墓室はまだ発見されていないが、碑文があるため、コンマゲネ王国の王アンティオコスⅠの墓廟であることは確かなようだ。
東西のテラスには巨大な石像が並んでいる。その石像を彫った際に出た大量のこぶし大の石片を積み重ねて巨大な円錐形の塚を造りあげたというが、石像に比べて墳丘はあまりにも大きすぎる。
古墳の直径は150m、本来の古墳の高さは75mだったという。クルガンと呼ばれる積石塚古墳なら直径100mを超えるものもあるが、ここまで大きく、かつ高さのある古墳はない。
墓室が地下墓だったとしたら、ある程度の石片が出ただろうし、それで足りずに岩山自体も削ったのではないだろうか。
ひょっとすると、元の山頂をある程度残し、その頂部に竪穴式あるいは横穴式の石室を造って、テラスの高さから山頂を覆うように石片を積み上げたのではないだろうか。

コンマゲネ王国の墳墓は他にも見つかっている。

カラクシュ古墳 前31-20年頃
このヒエロテシォンは墓室を備えた古墳と、その周囲に配置された3本ずつのドーリア式円柱群から成る。ネムルート山と同様に小石を積んで盛り上げた古墳で、現在の高さは30mになっている。
その墓室はコンマゲネ王国がローマ帝国に併合された(後72年)後に荒らされ、その石は最初のジェンデレ橋の材料とされたという。
ワシの円柱のバックに見える窪地が墓室の跡であるという。
このように墓室の跡が見えるということは、横穴式だったのだろうか。
円柱群は古墳の三方に130mずつ離れて配置され灰色の荒削りの石灰石のドーリア式円柱が3本ずつ並んでいた。トップに台座をのせ、その高さはおよそ7m、直径は1.7mである。
東側の円柱は1本だけ残り、その上に2.54mのワシの像が立つ。頭を後ろにそらして宙をにらむワシ。
柱の上の台座と柱身に刻まれたギリシア語の長い碑文によると、このヒエロテシォンはミトラダテスⅡ(前31-20)の母イシアスと妹のアンティオキス、その娘アカのために造られたという。
センソク古墳 前31-20年頃
ウチタシュ、3つの石と土地の人々が呼ぶ墓がある。本来は古墳とそれを取り巻いてペアの柱が3組配置されていた。柱の配置には特に深い意味はなく、据えやすいところに立てたらしい。
岩を掘り抜いた墓室への細長い通路は崩壊している。北東側の一対の円柱は軒を支え、その上に像が並んでいた。その中心に腰掛けたカップルはミトラダテスⅡとその妻と推定される。両側にワシが控えているという。
やはり横穴式の岩室墓だったようだ。
このように、コンマゲネ王国でアンティオコスⅠの次の王ミトラダテスⅡが築いた古墳が、ネムルート山頂部のアンティオコスⅠの古墳と同じように小石片を積み上げた積石塚で、横穴式だったとすると、アンティオコスⅠの墓室も横穴式岩室墓だったのだろう。

※参考文献
「コンマゲネ王国ネムルート」(2010年 A Tourism Yayinlari)
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」(2000年 小学館)