墳丘から周囲を見渡す。ホケノ山古墳の南側は集落が迫っていて、慶州の町にも似た景色だ。遠くにかすむのは御破裂山。
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その様子はこちら
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前方部に木棺が出ている。開いたバチ型の輪郭に平行して造られているようだ。
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墓壙内には南端に大型複合口縁壺が、中央には底部を穿孔した広口壺が共伴し、これに挟まれるように全長2.15m幅45㎝、現存する深さ15㎝の組み合わせ式木棺の痕跡が確認できました。
また、木棺内部の南側からは40X45㎝の範囲に薄く撒かれた水銀朱も検出されています。これらの状況からこの墓壙は埋葬に木棺を用い、複合口縁を有する大型壺・底部に穿孔のある広口壺を供献した埋葬施設であることが確認されました。
この埋葬施設は葺石をはずして、裏込め土から地山まで掘り込んで作られており、墳丘が完成した後に設置されたものと考えています。また、構築の年代については供献土器以外には全く副葬品が見られなかったため、供献土器の年代に頼らざるを得ません。
これらの土器は、概ね3世紀後半の中に治まるものであり、他の墳丘や周濠に伴って出土した土器の年代と大きく矛盾することはないと考えていますという。
ホケノ山古墳が3世紀半ばに造られ、この墓が後半なら、まだホケノ山古墳の被葬者がどのような人物か知られていた時代だ。そんな頃に前方部を掘って埋葬できるほどの人物は、被葬者の親族くらいではないだろうか。
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※参考文献
「遺跡を学ぶ035最初の巨大古墳・箸墓古墳」(清水眞一 2007年 新泉社)
「遺跡を学ぶ051邪馬台国の候補地・纏向遺跡」(石野博信 2008年 新泉社)
有年原・田中遺跡公園冊子