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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2010/02/02

ホケノ山古墳3 前方部の端にも墓壙

 
墳丘から周囲を見渡す。ホケノ山古墳の南側は集落が迫っていて、慶州の町にも似た景色だ。遠くにかすむのは御破裂山。  西側に箸墓古墳の後円部がこんもりと見える。近くにも小さな古墳があるらしい。 北側にも田畑や建物の中に古墳らしきものが小さな丘のように残っている。ホケノ山古墳の周辺には小さな円墳がたくさんあったようだ。ホケノ山古墳と同じくらい古いのだろうか。
その様子はこちら 東側にも小さな円墳があるはずだが、よくわからない。 後円部から見た纏向型前方後円墳の括れ部と前方部。撥形に広がる感じがよく写せなかった。この方向に三輪山があります。
前方部に木棺が出ている。開いたバチ型の輪郭に平行して造られているようだ。 木棺のあるところまで下りてきた。復元してある埋葬施設というのはこのことだったのか。他の古墳にもこのように前方部に墓室が出土することはあるが、時代が下った人物の墓だ。  桜井教育委員会の説明板は、ここに復元しているのは第二次調査において確認された埋葬施設です。墓壙の規模は全長4.2m幅1.2m残存する深さは30-50㎝になります。
墓壙内には南端に大型複合口縁壺が、中央には底部を穿孔した広口壺が共伴し、これに挟まれるように全長2.15m幅45㎝、現存する深さ15㎝の組み合わせ式木棺の痕跡が確認できました。
また、木棺内部の南側からは40X45㎝の範囲に薄く撒かれた水銀朱も検出されています。これらの状況からこの墓壙は埋葬に木棺を用い、複合口縁を有する大型壺・底部に穿孔のある広口壺を供献した埋葬施設であることが確認されました。
この埋葬施設は葺石をはずして、裏込め土から地山まで掘り込んで作られており、墳丘が完成した後に設置されたものと考えています。また、構築の年代については供献土器以外には全く副葬品が見られなかったため、供献土器の年代に頼らざるを得ません。
これらの土器は、概ね3世紀後半の中に治まるものであり、他の墳丘や周濠に伴って出土した土器の年代と大きく矛盾することはないと考えています
という。
ホケノ山古墳が3世紀半ばに造られ、この墓が後半なら、まだホケノ山古墳の被葬者がどのような人物か知られていた時代だ。そんな頃に前方部を掘って埋葬できるほどの人物は、被葬者の親族くらいではないだろうか。 
※参考文献
「遺跡を学ぶ035最初の巨大古墳・箸墓古墳」(清水眞一 2007年 新泉社)
「遺跡を学ぶ051邪馬台国の候補地・纏向遺跡」(石野博信 2008年 新泉社)
有年原・田中遺跡公園冊子