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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2009/09/08

金冠の立飾りに樹木形系と出字形系?

 
慶州の市街地には、新羅時代の巨大積石木槨墳(5世紀中頃-6世紀前半)がポコポコあって、その内の5つの古墳から金冠が出土している。製作時期の早い順に、皇南大塚北墳金冠塚瑞鳳塚天馬塚そして、下の不鮮明な写真の金鈴塚出土の金冠である。積石木槨墳はどこで成立して慶州にどのように入ってきたのか、調べてみたがわからなかった。その経緯はこちら

金冠は、「出」字形あるいは「山」字形と呼ばれる樹木を表したものや鹿の角などが立飾りになっていて、そのあちこちに小さな円形の歩揺や翡翠の勾玉がついているという、かなり特異なものである。この金冠はどこのどのようなものに起源を求めることができるだろうか?

金製ディアデム ホフラチ古墳出土 後1世紀 エルミタージュ美術館蔵
『騎馬遊牧民の黄金文化』は、ドン川下流右岸の町ノヴォチェルカッスクで偶然に発見された。サルマタイ貴族の女性の副葬品に由来する。
ディアデム上部には、樹木とその左右に鹿、山羊、鳥が配置されている。鹿と山羊の鼻面の先端には小環が作られており、元来何らかのものが吊り下がっていた。また、樹木の葉は歩揺のように小環で取り付けられていた。
ディアデム上部の樹木と鹿・山羊・鳥からなるユニークな情景はサルマタイの神話的世界の一端を表現していると思われる
という。
鹿も樹木も自然な表現で、歩揺が木の葉形である。
新羅の金冠のような出字形の樹木や鹿の角だけという立飾りとは似てもにつかない。とはいえ、鹿と樹木という組み合わせが新羅以外の場所で存在するのは確かである。 野山羊と聖樹 北アフガニスタン、シバルガン近郊ティリャ・テペ4号墓出土 前1~後1世紀 高5.2㎝ カーブル博物館蔵  
『世界美術大全集東洋編15中央アジア』は、王とおぼしき被葬者の頭蓋骨の横で、中空の見事な角をもった野山羊(アルガリ)の像が発見された。蹄の先につけられた4個の小環は、この小像の下にさらに構造物があって、それに固定するために使用されたものであろう。角のあいだにも中空の管がつけられており、その管に別の何かが差し込まれ、継がれていたと考えられる。被葬者頭部で発見された円板の葉をつける黄金の樹木(高9.0㎝16.46g)がそれであるという。
野山羊の頭部にのっていたにしては樹木が大きすぎるのでは。こちらは歩揺が円形になっている。
ホフラチ古墳出土のディアデムには左側にも樹木があり、鹿ではなく大きな角を持つ山羊があったが、ティリヤ・テペ出土の山羊とよく似ている。ティリヤ・テペはどのような民族の墓だったのだろう?
『アフガニスタン遺跡と秘宝』で樋口隆康氏は、出土品にはヘレニズム、パルチア、バクトリア、スキタイ、インド、中国、匈奴など、ユーラシア各地の文化の影響が見られる。1世紀のクシャン朝初期か大月氏の墓と見られるというが、『騎馬遊牧民の黄金文化』で田辺勝美氏は、この墓地に埋葬された人たちがどのような民族であったかという点については、大月氏とかクシャン族、サカ族とかさまざまな見解が提示されたが、筆者はユスティヌスやストラボンなどのギリシア人著作家がグレコ・バクトリア王国を滅ぼした民族の一つに挙げているサカラウリないしサカラウカエではないかと思うという。どちらにしてもイラン系騎馬遊牧民のようだ。
樋口隆康氏は、シバルガンの北5㎞の地に、このテペがあり、古い神殿遺構のテペの上面に堀込まれた6基の墓から約2万点の黄金製品を発見した。墓は何れも小型の小型の土坑墓で、遺体は木棺の中に盛装されて、納められていたという。
慶州の古墳群とは反対に、見つからないような墓に埋葬されていたらしい。

このような円板の葉をつけた樹木は、遼寧省房身2合墓出土の金製歩揺付冠飾に見られ、ホフラチ古墳出土の写実的な木の葉形歩揺ほどではないが、木の葉状の歩揺は遼寧省憑素弗墓(太平7年、415)出土の金歩揺冠・内蒙古出土(1~3世紀)の牛首金歩揺冠・内蒙古自治区出土(3-5世紀)の鹿角馬頭形歩揺飾にも見られる。 帽子の飾り イシック・クルガン出土 前4世紀 エルミタージュ美術館蔵
『騎馬民族の黄金文化』は、冠は、さきの尖った帽子を黄金で装飾し、正面にグリフォンや馬を配置して、側面に山岳に樹木の上にとまる鳥などを取り付けたものであった。この墓の被葬者は「黄金人間」と呼ばれ、足の先から冠まで黄金をまとっていて、スキタイ系民族の1つであるサカ族の一部族長とされている。
南側の埋葬施設は墳丘下に丸太で造られたログハウスのような墓室があった。墓室の大きさは内法2.9X1.5mの細長い長方形。身長はおおよそ165㎝で、形質人類学者のイスマギロフ氏によると年齢は16~18歳、ユーロペオイドとモンゴロイドの特徴が混合しているらしい。
ユーラシアの草原地帯の人々は一日の寒暖の差が激しく防寒の必要もあり、また馬に乗り行動するところから、三角形の帽子を着用していた。その帽子に黄金の装飾をつけたものや帽子の上に立飾りのついた冠帯をかぶることが彼らの冠であった。
このような冠は黒海沿岸から朝鮮半島までいくつか出土している
という。
墳丘に竪穴を掘って木槨を築いたのだろうか。
一見なんの共通点もないような尖った冠帽だが、よく見ると左耳上方に針金の樹木が見える。 鹿はいないが、「出」や「山」の字に繋がる形をした樹木の表現だ。
クーバンにあるウスチラビンスカヤ46号墓もサルマタイ族の墳墓で、出土した冠は直線的な樹木の2本の枝先と頂上に鳥、基部に角の大きな山羊、樹木の左右に山羊を対置したもので、樹木の造形が新羅の「出」字形の冠と似ているという。
クーバンのサルマタイ墳墓出土の冠が気になる。どんな形なのか見てみたいなあ。  ティリヤ・テペ6号墓出土の金冠について『世界美術大全集東洋編15中央アジア』は、第6号墓のシャーマンのような女性の墓室から出土したもので、6本の樹木からなっている。6本の樹木はそれぞれ歩揺や花弁で飾られていて、中央部をのぞく5本の木には富や王権のシンボルである鷲が左右についていたという。
山羊も鹿も登場しないこと、そして、樹木が「出」や「山」の字形ではなく左右対称に金板を切り取ったような形で、どちらかというと、新羅の金冠よりも時代が下がる藤ノ木古墳出土の金銅冠の方が似ている。

元は同じ樹木だったとしても、ティリヤ・テペから藤ノ木古墳へと伝わった樹木形立飾りの系統と、イシック古墳から慶州へと伝わった「出」「山」字形立飾りの系統という、2つの流れがあるのでは。
どのような経路で、それぞれ新羅や日本に伝播したのだろう。

イシック・クルガンの位置はこちら
積石木槨墳についてはこちら

※参考文献
「興亡の世界史02 スキタイと匈奴 遊牧の文明」(林俊雄 2007年 講談社)
「ロシアの秘宝 ユーラシアの輝き展図録」(1993年 京都文化博物館)
「季刊文化遺産12 騎馬遊牧民の黄金文化」(2001年 財団法人島根県並河萬里写真財団)
「南ロシア 騎馬民族の遺宝展図録」(1991年 古代オリエント博物館)
「アフガニスタン遺跡と秘宝 文明の十字路の五千年」(樋口隆康 2003年 NHK出版)
「世界美術大全集東洋編15 中央アジア」(1999年 小学館)