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忘れへんうちに 旅編に、中央アジア各地の旅に続いて、イランの旅を記載し始めました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2013/01/08

敦煌莫高窟14 飛天2 西魏以後


西魏時代、描かれる場所によって西域風飛天と南朝風飛天が表された。
その後の飛天はどちらが主流になっていくのだろう。

北周時代(557-581)

428窟北壁前部
『敦煌莫高窟1』は、初期では最大の中心柱窟で、縦13.75m横10.8m。
北壁人字披は木造建築の用に表現されており、その下の三角形の空間に説法図が描かれている。北魏の第259窟以降、この部分には大型の説法図が占めていたが、北周になって再び小型説法図が出現したという。
小型のため、仏三尊像の両脇には蓮台に坐る姿勢で供養菩薩が表され、本来は仏の頭部両側あたりに舞う飛天は、両端で仏の説法が素晴らしいと讃美している。
飛天の表現は、南朝風ではなく、第一期以来の重そうな体つきで、空間の都合で、お腹が下がった形にはなっていない。
頭光もあって西域風の飛天が描かれている。
同窟人字坡
同書は、敦煌石窟の中でも出色の人字披の図案。忍冬の間には蓮華、草花、飛天、馳鹿、飛鳥、猿などが華麗多彩に描かれるという。
描かれた丸地垂木の間に忍冬文が表される。左右の手にそれぞれ何かを持っている。両膝を開いて飛んでいる。 
腕に複数回巻き付け、風にあおられて鋭く翻る天衣は、北魏以来の様式だ。
頭光はく、中原風の飛天が描かれている。

北周末隋初(6世紀後半)

301窟窟頂南坡
飛天は秀骨清像的な細身ではなく、仁王のような逞しさがある。
天衣は一度腕を通しただけだが、その端が2~4本に分かれていたり、頭飾の紐が長く風になびいたりしている。
頭光はないが、天衣を何度も腕に巻いていない。これは新しい飛天かも。

隋時代(581-618)

407窟東壁門上 説法図
『中国石窟敦煌莫高窟2』は、東壁門上の説法図は北魏にできるが、隋代中期に再び採用されるという。
丸い天蓋の左右で釈迦の説法を讃美する飛天は、天衣を一度腕に通しただけだが、その天衣は細く、表が見えたり裏返ったりしながら後方にたなびいている。
頭飾や裙の紐なども白色で、もっと細く風に翻っている。
北周末隋初に出現した新しい様式の飛天だが、天衣・頭飾、裙の紐が長々と伸びていて、隋時代に完成した新しい飛天といっても良いだろう。
飛天の周りの雲気も、西魏の285窟のものからはかなり変化している。
西魏の雲気文はこちら
窟頂藻井
同書は、この窟の窟形、龕形、窟頂の天井装飾の様式は隋代中、晩期に流行する。
八弁の大蓮華には回りながら追う三兔の文様が描かれる蓮華の周囲には、藍地に飛翔する飛天が8体、藍色の天空を仰ぎ見るているのを彷彿とさせるという。
三兎の図は隋時代特有の意匠で、407窟のウサギは緑色だ。当窟は前回も今回も未公開窟だったが、他の窟で白いウサギが駆け巡っているのを見た。
407窟の三兎についてはこちら
大蓮華の周りを8体の飛天が流されるように描かれている。やはり天衣が頭飾や裙の紐と共に後方に長く伸び、その間にも新様式の雲気が入り込んでいる。手には開敷蓮華や未敷蓮華など様々な蓮華を持っている。
下図中央の飛天は天衣を着けておらず、着衣も偏袒右肩となっている。持物は蓮華の花弁をのせた華鬘だろうか。

隋末唐初(7世紀初頭)

390窟北壁中央 説法図
菩薩の背後には双樹、上には宝蓋、左右に脇侍菩薩が描かれる。壁画は弥勒菩薩説法図で、これは隋代の新しい題材であるという。
宝蓋の外側に一対の飛天が舞っている。正面を向いた顔は口以外はわからない。手に持っているのは双樹の花かな。
頭飾の紐はますます長くなり、裙の紐よりも長いくらいだ。
天衣は表裏を見せながら、優雅に翻っている。
南壁上部
こちらの飛天も説法図中の飛天と同じような表現になっている。
北周時代までは、描かれる場所によって西域風の飛天と北朝風の飛天が描き分けられていたが、遅くとも隋時代(581-618)には、新しい姿の飛天が登場する。
その姿は細身で顔は卵形、頭光はない。
天衣は両腕に一度通しただけで、頭部の上に丸く風を受け、その両端と頭飾や裙の長い緒が体に沿って流れ、表裏が翻っている。
そしてその飛天は、以前とは異なって、どの位置、どの図中にかかわらず、同じ様式で描かれるようになった。

初唐(618-712)

220窟 
北壁薬師経変
『中国石窟敦煌莫高窟3』は、貞観16年(642)の紀年銘があり、初唐で最も早い時期の窟という。
説明がないのでよくわからないが、仏三尊が飛地味な飛雲に乗って東方薬師浄土に戻ってきている。
その横に、薬師如来の宝蓋を囲むように、左下から1体の飛天が雲と共に上昇し、左上から伸びた雲と共に、もう1体の飛天が下降している。天衣よりも飛雲の方が目立つ。
上昇する飛天の天衣は体に密着していて、スピード感を表している。下降する飛天は飛び込むように両手を頭上で合わせている。その天衣は右上に細く描かれるが、隋時代までの天衣と比べると地味な表現にとどまっている。
飛雲に乗る仏三尊の方が、それぞれに風に翻る天衣を着けている。
57窟 伏斗式天井西坡
隋様式の飛天とさほど変わらない。
南壁中央説法図
隋時代までは、大きな宝蓋の左右に飛天が大きく描かれていたが、この説法図では宝蓋は樹木の間から見え隠れするように小さく表され、飛天も左右両端にかろうじて描かれる程度になってしまった。
というよりも、一見して飛天だとは思わなかった。裙と天衣はわかるが、弧を描く天衣の内側を探して、ひょっとしてこれが飛天の頭部かなという程度にしか見えない。
この飛天も飛雲と共に描かれている。
321窟 西壁龕頂南側
『中国石窟敦煌莫高窟3』は、長い飄帯は隋風に伸びたり巻いたりしている。洗練された表現という。
長々と伸びる天衣、いや飄帯が印象的だ。初唐期を代表する飛天らしい。
初唐期の飛天はそれぞれに異なった表現となっているが、こらちの飛天も飛雲に乗っていて、これが初唐期の新様式といえるだろう。

盛唐(618-712)

39窟西壁龕頂
同書は、涅槃像龕内には、横になった仏塑像の上方に5体の散華する飛天が描かれている。『大般涅槃経・機感荼毘品』に従って、七宝真珠香花瓔珞が虚空に浮かぶ。図中の飛天は両手で香花を捧げて供養し、長い裙と披巾は花文で飾られるという。
ここでは天衣でも飄帯でもなく、披巾と呼んでいる。その披巾には花文まで描かれている。
盛唐になっても飛天は飛雲に乗っている。
初唐期には窟内の飛天は少なくなり、飛天ではなく、楽器や装身具が天衣をつけて虚空に浮かぶようになった。そして、盛唐期になると飛天の数はますます減っていく。
それは、壁画のテーマが様々な経変を主とするようになったことと無関係ではないだろう。
それとも飛天に飽きたのだろうか。

関連項目
敦煌莫高窟13 飛天1 西魏まで
敦煌莫高窟12 285窟は飛天が素晴らしい
法隆寺金堂天蓋から1 敦煌にも

※参考文献
「中国石窟 敦煌莫高窟1」 敦煌研究院 1982年 文物出版社
「中国石窟 敦煌莫高窟2」 敦煌研究院 1984年 文物出版社
「中国石窟 敦煌莫高窟3」 敦煌研究院 1987年 文物出版社