養久山古墳群だと思っていたら、古墳墓群だった。遊歩道に沿って古墳墓が並んでいるのではなく、遊歩道が古墳墓の上についていた。時代及び説明は揖保川町教育委員会作成のプレートより。 養久山古墳墓群の地図はこちら
2号墓 弥生時代後期
径約9mの墳丘墓。箱式石棺が露出しているという。少なくとも2基の箱式石棺(内側を黄色で着色)が平行して築かれ、蓋らしき切石が転がっている。
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4号墓も弥生時代後期、径約7mの高まりが確認されたにすぎないという。穴が空いていた。
5号墓も弥生時代後期、13mX8.5mの長方形墳丘墓。南北両側に突出部、方丘の中心に壺棺、その両脇に配石墓1墓という。長方形の広場に切り株と石が転がっているようなところだった。配置からいうと壺棺の墓主が主で、配石墓の主が従ということになる。
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墳丘の規模は特定できない。配石墓と思われるという。墓の上に鉄塔が建っていた。
39号墓はみつけられなかった。分岐があったので、稜線から右へそれて歩いた。
32号墓 弥生時代後期
径約14mの墳丘墓。土壙墓7基、配石土壙墓5基、壺棺墓6基が確認されているという。壺棺の主、配石土壙墓、土壙墓の順に位が高かったことになるのかな。殉死などは行われていたのだろうか。
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8号墓、31号墓、9号墓は遊歩道沿いにほぼ等間隔に並んでいる。こうやって見ると古墓がやや盛り上がって見える。
8号墓も弥生時代後期、径約7mの墳丘墓と思われる、
31号墓も弥生時代後期、径約9mの墳丘墓と思われる、
9号墓も弥生時代後期、径約7mの低平な墳丘墓と思われるという。
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11号墓も弥生時代後期、径約8mの低平な墳丘墓と思われるという。
遊歩道に古墓のプレートがなくなり数分歩くと、山城跡があった。乙城址というらしい。
『日本城郭全集』によると、この城は建武年間(1334~38)に高瀬小四郎景忠が播磨国守護赤松円心の命により築いたとある。1441年(嘉吉元)の嘉吉の変で赤松氏が断絶したため本城も廃城となったが、応仁の乱以後赤松氏の再興とともに本城も復興した。応仁の乱以後は龍野赤松氏の麾下となったとある。 ・・略・・
1578年(天正6)赤松広秀は羽柴秀吉に追われて龍野城から乙城に移された。乙城城主となった広秀は、あらたに龍野城主となった蜂須賀正勝の麾下に入ったが、1585年(天正13)に城を出て、但馬竹田城へ移封され、その後乙城は廃城となったという。赤松広秀が次に行った竹田城も1600年(慶長5)頃廃城になっている。
見えているのは南端の土塁。登って少し歩いてみたが、主郭との間にくぼみがわかる程度だった。
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28号墓は広場にある。弥生時代後期、墳丘墓と思われる。規模・外形不明という。
27号墓も弥生時代後期、墳丘墓と思われる。規模・外形不明という。27号墓の向こうはかなり低くなっている。
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12号墓も弥生時代後期、径約7.5mの低平な墳丘墓。壺棺と土壙墓各1基を検出という。
13号墓も弥生時代後期、12mX15mの墳丘墓と思われるという。
14号墓・15号墓とも弥生時代後期、範囲が特定できない低平な墳丘墓という。低平な墳丘墓というのはほとんど見分けが付かない。
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16号墓も弥生時代後期、径約20mの大型墳丘墓と思われるという。墳墓の上を通り過ぎて振り返ると大きな盛り上がりがわかる。
17号墓も弥生時代後期、径約20mの大型墳丘墓と思われるという。こちらは木々に隠れて向こうの方に墳丘が見えた。
22号墓も弥生時代後期、墳丘墓と思われる。規模・外形不明という。
18号墳 前方後方墳 古墳時代前期
全長約30m。墳丘麓から壺棺が検出されているという。これが前方部なのか後方部なのかわからない。
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これが最後の墳墓。下まで下りて、車まで引き返した。養久山は標高は低い割に稜線の長い山で、地味ながらたくさんの墳墓があった。それも弥生時代後期から古墳時代前期という古いものだった。
![](http://4.bp.blogspot.com/_71OM9lkGuVg/SVLKGrXR2bI/AAAAAAAAQdM/TZV9u3n7soU/s400/DSC08569.jpg)
しかし、高霊よりも早い時期の古墳墓群が養久山に築かれているのを見ると、山に築かれた古墳群は、必ずしも外来のものとは言えないことがわかった。
また、古い墳墓はすべて古墳と思っていたが、古墳時代のものが古墳で、それ以前のものは古墓というらしい。
※参考文献
揖保川町教育委員会作成の説明プレート