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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2017/05/12

東寺 観智院1武蔵の水墨画


東寺に観智院という塔頭がある。
『東寺観智院の歴史と美術』は、東寺は、平安京の条坊制でいうと左京九条一坊にあり、南大門から北大門まで一直線に金堂・講堂・食堂が建ち並んでいる。創建以来、文明18年(1486)の土一揆による放火や文禄5年(1596)の地震など幾度か災害に遭ったが、その都度再建され、1200年前の平安京遷都以来、その位置を変えることなく現在に伝わっている。この伽藍の北限にあたる北大門を一歩外に出ると、八条通に面した北総門まで櫛笥小路(くしげこうじ)が続いている。この小路は、平安時代以来、そのままの幅で残っている京都市内で唯一の小路である。江戸時代まではこの小路の両側に、十五箇院ともいわれる多くの院家(寺僧の住坊)が建ち並んでいたという。

八条通に面している北総門 鎌倉後期
その左前の祠には、石造の不動明王 時代不明
北大門との間が櫛笥小路。向こうの大きな屋根は食堂。
板蟇股や舟肘木の簡素な四脚門をくぐって、
櫛笥小路に入ると、左手(東側)には院家の塀が続いているが、右手は学校になっている。
観智院は櫛笥小路の南端近くで、その門と五重塔を確認。

同書は、平安時代、伽藍の北にあたるこの場所には、花園や水田、町家などがあった。鎌倉時代末期、後宇多法皇の六箇の立願により、寺僧の「止住僧坊(院家)」の建立が企画された。
小野勧修寺流を継承した杲宝(ごうほう)が観智院を創建することとなり、延文4年(1359)、北大門の北東の位置に、観智院は上棟したという。
16年12月に修復が終了し、17年春に特別公開されている。
拝観入口となる庫裡前の庭。ミツマタの花が満開をやや過ぎて、苔の上に花が落ち始めており、その周りに置かれた伽藍石や鬼瓦も目に留まった。
多分左右対称に雲が表されていたのだろう。額に法輪を付けたものは、法隆寺の西院妻室鬼瓦(慶長年間、1596-1615年)と共通するが、何時の時代のものだろう。
こちらは顔が短いわりに4条の顎鬚と上方にそそり立つような髪は長い。
北西隅、蹲踞(つくばい)の脇に置かれた良い形の灯籠。織部灯籠ほど顕著ではないが、竿に控えめな出っ張りがある。

庫裡から入る。

渡り廊下を右折して、「楼閣山水図」の襖絵のある羅城の間の障壁画を廊下から鑑賞。
全体は写っておらず、右側の柱の間に描かれた楼閣山水図は4枚続きとなっている。ここは、壁面のように見せて、隣の武者隠しの「暗の間」から警護の者が襖を破って入って来られるようになっている。

観智院平面図(『東寺観智院の歴史と美術』より)
警護の者たちが控える「暗の間」そして「使者の間」と廊下から見ていき、突き当たると枯山水の細い庭がある。
その庭は客殿正面の方へと続いている。
観智院のリーフレットは、この客殿は慶長10年(1605)に再建されたもので、入母屋造り、軒唐破風を付けた桃山時代書院造りの一典型であるという。

リーフレットは、違棚、棹縁天井、竹の節欄間、帳台構の機能は住房生活が考えられ、住宅建築として貴重な存在であるという。
お寺の説明では、猿棒棹縁天井といって、棹縁に面取りがあって、断面が猿の顔に似ているとか。

客殿は奥が上段の間となっており、宮本武蔵が描いたという襖絵が現在でも残っている。
『東寺観智院の歴史と美術』は、鷲図と竹図は、極めて独特な表現を示しており、寺伝では「剣聖」として有名な宮本武蔵(1584-1645)によって描かれたとされる。客殿が再建された慶長10年(1605)頃には、武蔵はまだ20代であり、若年でこのような障壁画を描くことができたか疑問である。ただし、武蔵50歳代半ばの作と考えられている蘆雁図屏風(永青文庫所蔵)などと比べると、武蔵による後年の作の可能性は大きいだろうという。
上段の間の方は、入って鑑賞することができた。

同書は、宮本武蔵は、剣客として細川家に仕える傍ら、余技に水墨画をよくし、禽鳥を描くことに長じていた。『画乗要略』(江戸時代中期、白井華陽書)に、宮本武蔵善撃剣、世所謂二刀流之祖也、平安東寺観智院有其画山水人物、法海北氏気豪力沈、」とあるように、宮本武蔵は海北友松(1533-1615)に絵画を学んだといわれている。筆法鋭く覇気せまる画技は、海北友松に共通するところが多いという。
武蔵の水墨画の作品は、「枯木鳴鵙図」や「正面達磨図」、「布袋観闘鶏図」などは知っていたが、京博で現在開催されている特別展の「海北友松」に学んだことは知らなかった。終わらないうちに見に行かねば!

鷲図 上段の間東側
お寺の説明では、武蔵は20代前半、観智院に身を寄せていて、そこで海北友松と知り合って、水墨画を習ったということだった。
右上に、空中で身を翻して左下を見下ろす鷲。獲物か敵を見つけたような鋭さがある。
左下にいる鷲は、しかし、右上の鷲を見ておらず、着地しようと右足を出している。やや丸まって、負けを認めているようでもある。
ただ、武蔵の絵は、植物の葉先や鶏の尾羽などの先の鋭さというものが、昔見ただけだが印象に残っている。その鋭さが、鷲の先に描かれた雑草の、何気ない風景の描写のようで、しっかりとした線に現れているように思える。

竹林の図
リーフレットは、竹があたかも交差する二刀のように張りつめた緊張感で描かれ、二刀流武蔵の心意気が感じられるという。
竹の節が極端に太く描かれている。
竹だけでなく、葉も淡墨で描かれ、消え入りそうだが、その線は力つよい。細い枝の描き方も鷲図の草に共通する。

この襖絵の向こう側が羅城の間の奥の障壁画になっている。

楼閣山水図 奥(南)の襖4枚と続く右(西)の1面
『東寺観智院』は、羅城の間の楼閣山水図には、海北友松の影響が強くみられ、単なる寺伝としてあながち否定するわけにもいかないという。

楼閣山水図 西の襖4枚
上図と比べると、簡略化された楼閣と、消え入りそうな樹木だけという静かな風景の描写となっている。
これは、先ほども記したように、隣接する「暗の間」から襖を破って警護の者が駆けつけるためのものなので、簡略に描いているとも考えられる。
絵のあるところだけを拡大。樹木は奥の障壁画の描き方と似ている。


本堂を拝観した後、四方正面の庭に向かっていると、「どうぞ写して下さい」と言われた。観智院は撮影禁止だったが、唯一写すことができたところ。
それは、四面正面の庭と本堂の間の廊下の先にある極楽橋から見える書院の襖に描かれた満月の図で、書院の襖に描かれた、浜田泰介画伯の「四季の図」の内、「秋の音」図の満月が見えているのだった。
そして四方正面の庭を拝見して終了。

外に出て客殿の屋根が杮葺き(こけらぶき、柿は木偏に市、こけらは木偏に一+えんがまえ+縦棒)なのに気付いた。
その屋根をしっかりと写そうと思って移動していて、この八重桜の花房が吊り下がっているのに気付いた。
ちょっと珍しいかな。
しかし、屋根は大きな木に阻まれてしまった。

北大門へと向かう。
こんなところに堀があるとは思わなかった。欄干が石で造ってあっていい雰囲気。
太鼓橋だった。
その真ん中から石製の欄干と西側の堀を写す。高欄笠石は曲線になっているように見えたが、ただ傾きを持たせているだけ?束石の形も面白い。
北門を入って、隙間から観智院が見えたが、やはり客殿の屋根は姿を現さない。
さっきの堀の続きに架かる橋の高欄笠石は木製に取り替えられていた。

                →東寺 観智院2仏像は唐時代のもの

関連項目
東寺 兜跋毘沙門天像も唐時代
東寺 五重塔内部

※参考文献
「東寺観智院の歴史と美術-名宝の美 聖教の精華」 2003年 東寺(教王護国寺)宝物館