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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2010/11/23

奈良時代の匠たち展6 木の削り痕と道具



日本では鋸がいつから使われるようになったのだろうという素朴な疑問は昔からあった。
『奈良時代の匠たち展図録』は、日本で、大工道具がみられるようになるのは弥生時代からである。弥生時代の大工道具としては、斧や鑿、鉇(やりがんな)が出土している。古墳時代になると、古墳への副葬品の中に鉄製の大工道具がみられるようになり、斧・鑿・鉇・鋸などの種類があったことが知られる。平群町の烏土塚古墳から鋸が出土した例などがあるという。
同展では飛鳥時代の鋸が展示されていた。

鋸 飛鳥石神遺跡、天武・持統朝B期遺構出土 7世紀後半 鋸身鉄製残存長44.5㎝
鉄製の鋸身の先端は欠損しているが、木製の柄は完存しており、鋸身は中茎式で木製柄に差し込んで、鉄釘で留められている。柄の端には鉄製の環状の口金がはめ込まれ、柄尻は蕨手状に加工される。同様のものは法隆寺に伝世した鋸の例があり、他の出土例などから奈良時代においても基本的には同様の型式であったと推定されているという。
鋸の刃は想像していたよりも華奢だった。こんなもので大木から板を切り出すことができたのだろうか。
竹中大工道具館というページでは、わが国の鋸は一般に引くときに切れるつくりになっています。世界の大工道具を見渡すと、ほとんどの国で鋸は押し使いですので、わが国の鋸は非常に珍しい使い方をしていることになりますという。
おそらく鋸も半島経由で日本にもたらされたのだろうが、どの時点で「引く」ようになったのだろう。
井戸枠の鋸切断痕 橿原遺跡出土 飛鳥時代
斜めに走る木目とは別に板に直交する方向の縞状の加工痕跡がみられる。これは鋸によるとみられる切断痕と考えられるという。
奈良時代でさえ鋸が上図程度のものだったなら、飛鳥時代の鋸ではこのような薄い板を切断する程度だっただろう。そうすると丸太から板にするには、まず斧か何かで割ったのだろうか。
日本では縄文時代から中世半ば頃まで、木材を割って製材をおこなっていたと考えられている。奈良時代に建築用材として重宝されたヒノキやスギはまっすぐに木目が通っていて割りやすく、打割製材に適した木材であるという。
会場には打割製材模型が写真パネルと共に展示されていた。

1、木目に沿って墨線を打ち、墨線の上から全長にわたって2-3㎝の間隔で鑿を打ち込んだ後、裏からも同様に鑿を打ち込む
このような角材にするのにはどんな道具を使ったのだろう。
2、鑿を打つ過程で、木目に沿って徐々に亀裂が入っていくが、最終的には木口より楔を打ち込んで材を割った。割った面には材面からの鑿の刃痕が残り、中世の建築部材と同様の刃痕が確認できた
板をつくる場合はこのような作業を繰り返したのだろう。木材としてかなりのロスがあっただろうなあ。
  斗栱未製品の鑿痕 東大寺出土
  側面のうち木口面には鑿による整形の痕跡がみられるという。
  鑿で凹面を削り出すのか。鉇かと思っていたが、鉇は人目につく場所を仕上げる道具だった。
3、割って製材された木材の大半は、割り肌の上から釿で削って使用される
鑿の痕が釿で簡単に平らになっていくように見えるが、実際は大変な作業なのだろうか。

  建築部材、礎板 平城宮出土
  表面には木目の方向に沿った釿による加工痕跡が明瞭であるという。
  釿は平たい幅の広い痕ができるのかと思うが、意外と狭くて短い痕跡になるのだ。
4、さらに建築部材の中で、人々の目に触れる部分は鉇で平滑に仕上げる場合が多い
それは作業が大変だったからだろうか。それとも今でも見える箇所だけカンナで仕上げるのだろうか。
竹中大工道具館は、今日見られるような長方形の鉋(台鉋)が導入されたのは室町中期頃だと考えられています。また日本の鉋は、海外の鉋の多くが押して使うのに対し、引いて使うことでも知られていますという。
これは何かの番組で見たことがある。台鉋のように木材面にびったりと当てるのではなく、両手で持った鉇が木材に当たっているのは刃先だけだった。それで紙のように薄い削りかすができていて、道具よりもその腕前に感心した。
  斗栱未製品の鉇痕 東大寺出土
  側面の斗繰面には細長い削り痕跡を見るかぎり本品に関しては鉇による加工の可能性が高いように思われるという。
このような凹曲面を平滑にするのは鉋では無理だろう。
鉇は正倉院宝物にもあった。

鉇(工匠具) 5口内2口 全長30.3・28.9柄径2.2・2.0 正倉院南倉蔵
『第62回正倉院展目録』は、宝庫には工匠具が6種類21点、及び部材2点が伝えられている。いずれも実用品と考えられ、使用による摩滅が著しいものが少なくない。
鉇はいずれも木製の柄に先端を三角形あるいは木の葉形とした鉄製の刃を押したもので、刃は両刃で先上がりに反りを持たせている。建築用の鉇に比べ、小型であることから、木工用であったと考えられる。
右は柄をスギ製とし、刃先は三角形で鋒(きっさき)は左右に急角度に作られている。左は柄がヒノキ製で、刃は柳葉形で中央に刃先で二股に分かれる鎬(しのぎ)を作っているという。
大工道具ではなかった。このような道具で正倉院宝物の品々を作ったのだろうか。 

※参考サイト
竹中大工道具館大工道具の紹介

※参考文献
「奈良時代の匠たち-大寺建立の考古学-展図録」(2010年 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館)

「第62回正倉院展目録」(奈良国立博物館編集 2010年 財団法人仏教美術協会)