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忘れへんうちに 旅編に、中央アジア各地の旅に続いて、イランの旅を記載し始めました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2009/06/12

十輪院の石仏龕は本堂の奧

 
石仏龕は公開されていないのかとも思ったが、お堂の中で掃除機の音が聞こえてきたので、掃除中のおばさんに声を掛けると、左端からあがるように言われた。これが本堂だったのだ。 中に入っても本尊は見当たらない。中央が祭壇になっていて、その正面に行くと、向こうの方に石の仏龕が見えた。仏龕の中の地蔵菩薩が本尊らしい。石仏龕に近づくと、奧に造られた別の建物の中にあった。想像していたよりもずっと小さなものだった。
その前に座ると、先ほどのおばさんが説明を始めた。
何故十輪寺ではなく十輪院かというと、元興寺の塔頭だからです。
真ん中の地蔵菩薩が鎌倉初期に造られました。その後にお釈迦さんと弥勒さんが造られました。
最初は野ざらしでしたが、人々の信仰を集め、やがて上に屋根がかけられました。南側に礼堂として建てられたものが今の本堂です。
お釈迦さんと弥勒さんの外側にはわかりにくいですが四天王の2体が線刻されています。残りは龕の向こう側にあります。四天王の両端には仁王さんが線刻されています

というような話だったが、線刻は、そう言われればそのようなものかなあくらいにしかわからなかった。
おっちゃんは慶州の石窟庵みたいやなあと言っていたが、説明を聞いてますます石窟庵に似たものが日本にもあるなどと確信するに至った。時代は石窟庵のほうが遙かに古く、もちろん関連はありません。過去仏のお釈迦さんと未来仏の弥勒菩薩、現在仏の地蔵さんとで三世仏として信仰を集めましたという。
お地蔵さんの顔がええなあ。お釈迦さんは間延びがした顔で、弥勒菩薩はお釈迦さんと眉が似ているくらいで、肉付きのよい顔だ。三道も似ていない。しかし、右手や衣服の表現はよく似ているので、同時期に造られたのだろう。
弥勒さんは三道の下に瓔珞が見えるし宝冠も被っているので弥勒菩薩かと思ったが、お釈迦さんと同様偏袒右肩の衣服をまとっている。56億7千万年後に衆生を救済するために下生した姿の弥勒如来なのか、よくわからない。このあたりが、正式なお寺の本尊として造立されたのではなく、お地蔵さんの民衆の信仰から徐々にできあがった仏龕というのが頷けるなあ。  その弥勒さんのある側の壁面。『南都十輪院』は、地獄の冥官である十王、先霊の追福のためのための小型五輪塔という。慶州の石窟庵は当初は内部に入って如来坐像の周りを右遶してまわったのだろうが、この仏龕は内部が地蔵菩薩以外に空間がない。 昔は仏龕の周りをまわっていたので、傷みがひどく、現在では外側はみることができませんという。
当時の衆生は外側をまわっていたらしい。説明以上にいたみがひどく、バラバラに近い。『南都十輪院』で河原由雄氏は、かくてこの石龕は六道済度と極楽引導を期待する地蔵信仰を中核に、南都のさまざまな民間信仰を加味して作られたもので、これの制作は浮彫や線刻にみる、平安古仏の風格を温存する、鎌倉時代のはじめ頃とみとめられようという。
南都には東大寺・興福寺・元興寺など立派なお寺だらけなのに、そのようなお寺では一般民衆は救われなかったんやなあ。



関連項目

十輪院4 魚養塚
十輪院3 十三重塔は鎌倉時代
十輪院の庭にあるのは石仏

※参考文献
「南都十輪院」(十輪院発行)