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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2006/11/05

隈取りの起源は?




人体に立体感を与える隈取りを遡ってみる。

西域南道東部のミーラン第3寺院で出土した壁画断片で後300年頃のものはかなりはっきりしている。臺信祐爾氏は「明るい赤茶色の釈迦の肉身線に沿って、赤茶色の隈が刷かれ、立体感を表現している」と解説している。
釈迦の首の赤茶色の隈取りや比丘の薄いグレーの隈取りは立体表現であることがよくわかる。
同じく西域南道東部の楼蘭LC遺跡出土の毛織綴錦断片は3-4世紀のヘルメス像を表しているらしい。臺信氏は、グレコ・ローマン美術にみられる人物表現そのものである。・・略・・また、淡い紅色、薄い鼠色の細い帯を輪郭線に沿って、並べて織り出すことによって肉体の立体感を表現しているという。
ヘルメスの着衣なのか、首の左側にある3色の縞や、左隅の花の断片のようなものは暈繝ではないのだろうか。西域南道西部のサンプラ出土の毛織綴錦断片は後1-3世紀 
臺信氏は、仕上げは精緻であり、戦士の面貌に見られる筋肉表現は、きわめて自然かつ写実的であり、優れた立体感を示している。・・略・・バクトリアないし西方で制作されたとみられるという。よく見るとこの武人の持つ槍の刃や上の装飾帯などに暈繝が用いられている。刃は平たいので立体的に表わそうとしたものではないだろう。ということは暈繝による装飾と、立体感を表す隈取りは別のものと考えられていたのではないだろうか。このことは上図の顔の立体表現と、衣服と見られるものの縞模様に使われた暈繝の違いと同様に思われる。
現トルクメニスタンの旧ニサ出土の壁画断片は前2世紀のものである。彼の地は当時アルサケス朝パルティアが支配していたらしい。
田辺勝美氏は、ギリシアないしローマの美術の影響を受けた折衷美術が一世を風靡したことが知られている。・・略・・また、壁画断片も、同じくヘレニズム映画を彷彿されるという。
そして旧ニサはアルサケス朝ミスラダテス1世が前2世紀半ばに創建された都城であったらしい。頬や顎に見られる白いものは汚れなのか、照り隈(ハイライト)なのかわかりにくい。
タルクィニアのプンプ家の墓より出土の壁画は前150年頃つまり上図とほぼ同じ頃にエトルリア(現イタリア)で制作されたものらしい。
青柳正規氏の解説文は、エトルリアでこのような図像が生まれる契機として、小アジアの、とくにペルガモンの想像力豊かな美術の影響がみとめられる。事実、輪郭線を排して明暗法のみで描き上げた彫塑的なその描法は、東地中海域におけるヘレニズム中期の絵画様式に由来していると考えられるという。
ギリシア、ヴォロス出土の「アルキディケの彩色墓碑」は前200年頃
青柳氏は、彩色の剥落がどの程度であるのかは明らかでないが、輪郭線を中心とする線描風の描法というが、立体表現についてはふれていない。
しかし、輪郭線の内側に明るい色の隈取りがあるのは明らかだ。上図とは対照的で、控えめに立体感が表現されている。

そして、私の蔵書のなかで最も古い隈取りは、前350-340年頃のパエストゥム出土の墓室壁画で、剣闘士の戦いを表している。パエストゥムはイタリアにり、ギリシア人の植民都市であったが、前400年頃古イタリア民族ルカニア人に占領されたということだ。 篠塚千恵子氏は「墨色の輪郭線に肌色の陰影がつけられているものの、線的な、いわば色のついた素描である」と解説しているが、それでも立体感は表せているように思う。
キジル石窟やトユク石窟に先立つものをみていくとヘレニズムの影響であったことが明らかとなった。 また、西域南道や西域北道のキジル石窟の最初期の仏菩薩の顔が深目高鼻というか、西欧風の顔立ちであるのは、彫りの深いギリシア人に似せたのではなく、当時その土地に住んでいた人たちが西欧系の人たちだったからだ。

関連項目
敦煌莫高窟5 暈繝の変遷2
敦煌莫高窟4 暈繝の変遷1
奈良時代の匠たち展1 繧繝彩色とその復元
第五十八回正倉院展の暈繝と夾纈
日本でいう暈繝とは
暈繝はどっちが先?中国?パルミラ?
日本でいう隈取りとは
トユク石窟とキジル石窟の暈繝?

※参考文献

「世界美術大全集4 ギリシア・クラシックとヘレニズム」 1995年 小学館
「世界美術大全集5 古代地中海とローマ」 1997年 小学館
「世界美術大全集東洋編15 中央アジア」 1999年 小学館