お知らせ

忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2024/03/29

アトメイダヌ広場で行われた行事


スルタンアフメットジャーミィ(ブルーモスク)近くのアトメイダヌ広場には、3本の柱が立っている。それはローマから東ローマ帝国にかけてヒポドローム(戦車競技場、ベンハーでやっていたような)
イスタンブール アトメイダヌ広場 Google Earth より


切石積みのオベリスク Örme Dikilitaş  ローマ帝国皇帝コンスタンティヌス一世(在位306-337)頃
『望遠郷』は、アトゥ広場の南に立っている。高さ32mでかなり荒く切り出された石材でつくられている。ピエールジルはこの柱を「巨像」と記しているが、現代のほとんどの記述では「東ローマ皇帝皇子、コンスタンティヌスの柱」となっている。これらふたつの名前はそれぞれ、柱の台座のギリシア文字で刻まれている碑文からつけられたものと思われる。その碑文には、この柱とロードス島のコロッソスとを比較した内容が刻まれ、また傷みがひどっかたので、コンスタンティヌス七世が青銅で覆って建て直した、と記されている。おそらくコンスタンティヌス一世の時代につくられた柱であろうという。
ロードス島のコロッソスとは、ロドス島にかつて存在した巨像のこと。コロッソスは巨像という意味で、ローマのコロッセオは、かつてネロが黄金宮殿(ドムス・アウレア)近くに造った巨像の近くに、後に建造された円形闘技場ということに由来する固有名詞。
光が当たっているので白っぽいが、実際は美しいとは言えない。


三匹の蛇の頭がなくなってしまった蛇の円柱 
Yılanlı Sütun コンスタンティヌス一世が移設
『望遠郷』は、3匹の蛇が絡み合った形をしている。ギリシアが前479年にプラエーテでペルシア軍に勝ったのを記念し、三脚部に31の同盟ギリシア諸都市の名を刻んでデルフォイのアポロ神殿に奉納したものを、コンスタンティヌス一世がここに移した。3匹の蛇の頭はコンスタンティノープル陥落後、次々に失われたが、そのうちのひとつが1847年に発見され考古博物館に保存されているという。
しかし、この写真ではねじれた短い円柱が分かりにくい。

これだけしか残っていないが優美な囲いをしてある。小さくて地味なためあまり人だかりがない。
アトメイダヌ広場 蛇の円柱 イスタンブール歴史散歩より


ローマ帝国末期の皇帝テオドシウス一世(在位379-395)のオベリスク Theodosius Dikilitaşı は逆光なのか霞んで見えた。
『望遠郷』は、前16世紀のエジプト新王国時代にトゥトメ ス三世によって建てられたこのオベリスクは、高さが60mあった。しかし390年にテオドシウス一世によってコンスタンティノープルに移された際に破損し、上部3分の1の20mのみが設置されたという。

このオベリスクの台座 大村次郷写真
同書は、アトメイダヌにそそりたつオベリスクの台座は、ビザンツ人の手になる。この台座には桟敷からヒッポドロームでくりひろげられる競技を観るビザンツ皇帝とその一統の姿がきざまれているという
イスタンブール アトメイダヌ広場 テオドシウスのオベリスク台座 イスタンブール歴史散歩より


この三本の柱は、蛇の頭部が失われたとはいえ、競技場を広場としてオスマン帝国の時代でも残された。そして、そこでは1582年のムラート三世の息子の割礼の祝祭の細密画に残っていて、ムラート三世が見ている場面には蛇の円柱が中央に描かれている。

『トルコ文明展図録』は、スルタンムラト三世が、1582年に皇子メフメットの割礼にあたり催した祭典は、52日間昼夜をあげて続けられた。スルタンアフメット広場にあるアトメイダン(ヒポドローム)でおこなわれたパレードには、 イスタンブルの全職人組合が参加した。画家オスマンの指揮のもとに、宮廷画家たちがこの盛大な行事を見開きで1図,合計 250図のミニアチュールに描いた。それらの内215図が今日まで伝わっているという。


「祝祭の書」 トプカプ宮殿博物館蔵 写真大村次郷 1582-83年頃
『図説イスタンブール歴史散歩』は、1582年のムラト三世主催の割礼の祝祭のひとこま。図左上では、スルタンが桟敷からアトメイダヌでくりひろげられる催しを見物している。その右側の白帽赤衣の人物は、警備のイェニチェリであるという。
Google Earth の地図で見ると、この蛇の円柱の向かい側はスレイマン大帝の大宰相で、後にスレイマンに殺されたイブラヒムパシャの邸宅(現トルコイスラーム美術館)近くのはず。
トプカプ宮殿蔵細密画 祝祭の書 祝祭のパフォーマンス 図説イスタンブール歴史散歩より

少年ダンサーや楽士たち同書は、中央では、少年ダンサー(キョチェク)が踊りを披露している。左右では計5名の楽士が楽器を奏している。図下左から中央にかけて、イスラム神秘主義(スーフィズム)の教団(タリカート)の一つ、メヴレヴィ 一教団の修道者(デルヴィシュ)たちが4名並び、中央の2人は、メヴレヴィー教団を象徴する楽器であるネイ(葦製のたて笛)を奏し、右側の青衣のデルヴィシュは、旋舞(セマーイ)を行なっている。2人の間には、当時まだアトメイダヌに残っていたビザンツ時代にデルフォイ神殿から運ばれた3匹の海蛇の銅柱が見える。左端の柱はコロッススであるという。
トプカプ宮殿蔵細密画 祝祭の書 祝祭のパフォーマンス 図説イスタンブール歴史散歩より


綴織り職人たちの行列 「祝祭の書」より トプカプ宮殿博物館蔵 写真大村次郷
同書は、1582年の同業者団体の行列。綴織り職人たちが製品をかかげて、アトメイダヌを行進しつつある。図左上の桟敷からスルタンが見物しているという。
同じ年に描かれた二つの細密画なのに、この図では右の建物は2本のミナーレがあるのでモスクである。イブラヒムパシャの邸宅はどうなっているの? 切石積みのオベリスクとテオドシウスのオベリスクの並びからこの図はイブラヒムパシャの邸宅側に向かって描かれているし、反対側だったとしても、スルタンアフメットジャーミィはまだ建設されていないはず。
『トルコ文明展図録』は、画面右上部にはこの儀式のために特別に設置された観覧席に坐す内外の招待客がみられるという。
トプカプ宮殿蔵細密画 祝祭の書 綴織り職人たちの行列 図説イスタンブール歴史散歩より

その謎は『トルコ文明展図録』の解説で解けた。
画面左上部にはイブラヒーム宮殿に設けられた特別席から行進をみているスルタンと高官という。
スレイマン大帝の大宰相で、大帝に殺されたイブラヒムパシャの邸宅前だったのだ。大木を挟んだ右のモスクは、現在まで残らなかったのだろう。
トプカプ宮殿蔵細密画 祝祭の書 綴織り職人たちの行列部分 図説イスタンブール歴史散歩より

蛇の円柱の頭部は、蛇というよりも鳥のよう。
トプカプ宮殿蔵細密画 祝祭の書 綴織り職人たちの行列部分 図説イスタンブール歴史散歩より


トプカプ宮殿の厨房では、「祝祭の書」の中から下図のようなパネルがあった
右図はテオドシウスのオベリスクの向こうには三階建ての桟敷席に大勢の見物客が描かれ、広場を料理を盛った容器を抱えた人たちが行進している。
左面には特別の桟敷席で見物するムラート三世の前を料理人を乗せた山車が動いていく図の一部だけが紹介されていた。


左図は吹きガラスの山車、右図は吹きガラスの製品と見物客たち
『トルコ文明展図録』は、「祝典の書」のミニアチュールは、見開き頁をつかって描かれている。
上方イブラーヒムパシャ宮殿の特別席には行進を見守るスルタンムラト 三世と皇子メフメットの姿が、反対側では特別に作られた観覧席に招待客がみられる。画家オスマンの作風であるという。
トプカプ宮殿蔵細密画 祝祭の書 ガラス職人組合の行進 トルコ文明展図録より

同書は、左画面にはガラス炉をのせた車があり、 ガラス職人たちは炉のそばで瓶を吹いてい るという。
移動させながら炉を高温に保つのは大変なことではなかったのかななどと思ってしまう。
トプカプ宮殿蔵細密画 祝祭の書 ガラス職人組合の行進 トルコ文明展図録より

同書は、右画面では青ガラス製の水注、ポット、 香炉、砂時計などを頭上の盆にのせたり手にもって行進しているという。
当時は首の長い水注が流行っていたようだが、中には把手や蓋付の器も。
トプカプ宮殿蔵細密画 祝祭の書 ガラス職人組合の行進 トルコ文明展図録より


スレイマニエジャーミイの模型を運ぶ人々 「祝祭の書」より ナッカシュオスマン画
THE ARCHITECT AND HIS WORKS SINAN』は、スルタンムラト三世の息子メフメトの割礼のお祝いは52日間続いた。
毎日、さまざまな職人組合がアトメイダヌ広場をパレードした。これらの行列はナッカシュオスマンの『Surname-i Hümayun』に描かれていて、この場面はスレイマニエジャーミィの模型を運ぶ人々を描いているという。
ナッカシュオスマン画「祝祭の書」よりスレイマニエジャーミイの模型を運ぶ人々 THE ARCHITECT AND HIS WORKS SINAN 

白いターバンを巻いたイエニチェリたちが模型を担いで行進している。

ナッカシュオスマン画「祝祭の書」よりスレイマニエジャーミイの模型を運ぶ人々 THE ARCHITECT AND HIS WORKS SINAN


『祝典の書』第34・35葉 生花業者の行進 1582年頃 トプカプ宮殿博物館蔵
トプカプ宮殿博物館蔵『祝典の書』第34・35葉 生花業者の行進 1582年頃 世界美術大全集東洋編17 イスラームより


ローマ帝国時代からオスマン帝国時代まで、同じ場所で晴れの行事を行っていたのは他にはないだろう。




関連記事
ローマ ネロの黄金宮殿・ドムス・アウレア1

参考文献
「イスタンブール歴史散歩」 澁澤幸子・池澤夏樹 1994年 新潮社
「トルコ文明展図録」 中近東文化センター 1985年 平凡社
「THE ARCHITECT AND HIS WORKS SINAN」 REHA GÜNAY 1998年 YEM Publication 


2024/03/22

トプカプ宮殿ハーレムのムラート三世の間


トプカプ宮殿は、コンスタンティノープルを陥落し、ビザンティン帝国を滅亡させてオスマン帝国の首都をイスタンブール(現地の人はイスタンブルと呼ぶ)に変えたメフメト二世が二番目に建設した宮殿である。
当初はハーレム(現地ガイドのアイシャさんはハレームと言っていた)はなかったことが、『イスタンブール歴史散歩』の、メフメットⅡ世が建てた当時の宮殿にはハーレムはなかった。その後の何代かのスルタンたちも妻妾は旧宮殿(エスキ・サライ)に住まわせていた。
シュレイマン大帝が初めて寵妃ロクセラーナをトプカプ宮殿に入れたとされているが、当時は木造のパヴィリオンに住まわせていたらしい。
現在のハーレムはムラ卜Ⅲ世(在位1574-95)の時代に完成し、メフメットⅣ世(1648-87)とオスマンⅢ世(1754-57)の時代に増改築が行われているという記述で知ることが出来た。
ドラマなので仕方のないことだが、「オスマン帝国外伝」ではハーレムは石造りの建物だったし、皇帝以外は黒人宦官しか出入りできないはずの禁裏に、スレイマンの部下たちが入り込んでいた。

このハーレムの中にもミマールスィナンが設計した建物がある。それがスレイマンの孫ムラート三世の間である。

ハーレム平面図(記憶と文献より部屋や通路の場所を判断したので、間違いもあります)
① 車の門 ② 黒人宦官の守衛室 ③ 黒人宦官の中庭 ④ 皇子の学校 ⑤ 黒人宦官の居住区 ⑥ 建物の中の通路 ⑦ 配膳室 ⑧ オダリスクの中庭 ⑨ ヴァーリデ・スルタン(母后)の居間 ⑩ スルタンの浴室 ⑪ スルタンの広間 ⑫ ムラート三世の間への控えの間 ⑬ ムラート三世の間 ⑭ アフメット一世の図書室 ⑮ フルーツの間またはアフメット三世(在位1703-30)の食事室 ⑯ カフェス ⑰寵姫たちの中庭 ⑱ 寵姫たちの個室 ⑲ 黄金の道 ⑳ ヴァーリデ・スルタンの中庭 ㉑ 鳥籠の門(ハーレムの出口)
トプカプ宮殿ハーレム平面図 トルコ・イスラム建築紀行より


ムラート三世の間は見学したものの、ロープが張られていたり、結界があったりして、部屋の中を自由に歩き回れなかったので、写真もごくわずかしか撮れなかったので、『THE ARCHITECT AND HIS WORKS SINAN』(以下『SINAN』)の図版は貴重だ

ムラート三世の間平面図
右の小さなドームは⑫控えの間、大ドームの⑬ムラート三世の間。
平面図では上側、入口からは右手にあるのが暖炉側で、左手にあるのが三層の泉側となる。
ムラート三世の間平面図 THE ARCHITECT AND HIS WORKS SINAN より


『望遠鏡』は、この部屋には建設当時のままの素晴らしい装飾が残っている。壁はイズニックのタイルで覆われている。満開のプラムの木の絵柄が青銅の暖炉を取り囲み、見事であるという。
トプカプ宮殿ハーレム ムラート三世の間 暖炉とプラムの木のタイルパネル THE ARCHITECT AND HIS WORKS SINAN より

暖炉上部
トプカプ宮殿ハーレム ムラート三世の間 暖炉の上のタイル装飾 THE ARCHITECT AND HIS WORKS SINAN より

暖炉上部脇のタイルパネル
青地にプラムの細い枝と花が鏤められている。
トプカプ宮殿ハーレム ムラート三世の間 暖炉とプラムの木のタイルパネル THE ARCHITECT AND HIS WORKS SINAN より


暖炉の両側には天蓋があるが、それ以外のタイル装飾や壺のような形の壁龕、そして戸棚の鼈甲と螺鈿の扉は当時のままという。特に、平天井のレベルと窓の上辺の間の青地のタイルは、高さがあるので、白でコーランの言葉を記したカリグラフィーとのコントラストが、淡い色のタイルが多いこの部屋の良いアクセントになっている。
説明パネルは、オスマン帝国のバロック様式の二つの天蓋玉座は、木に金メッキが施されており、18 世紀のものという。


満開のプラムの木は暖炉の付近以外にも、⑫ムラート三世の間への控えの間と⑬ムラート三世の間の間のトンネル状のところにあった。
トプカプ宮殿ハーレム ムラート三世の間への控えの間 トルコ・イスラム建築紀行より

95年に見学した時に写していた。


このパネルの左側と推測している壁面
プラムの枝や幹はトルコブルーの青で、背景がコバルトブルーで、トゲと輪郭が白。その細い白の線が、他の枝の前に伸びていたり、背後に回ったりするのを際立たせている。きっとこんな風に育てていたのだろうと思われるようにまとまっている。幹の前と横には大きく開かないタイプのチューリップが描かれている。これがチューリップの原種に近い種。
トプカプ宮殿ハーレム ムラート三世の間入口脇の装飾タイル トルコ・イスラム建築紀行より

三層の泉側の壁面
トプカプ宮殿ハーレム ムラート三世の間 三層の泉側 THE ARCHITECT AND HIS WORKS SINAN より


『イスタンブール歴史散歩』は、三層になった大理石の泉は、水音で涼感を誘うと同時に、会話の盗聴を防ぐ目的もあったという。

昔の写真の方がよく見えるが、当時は水を流していないが、今回は蛇口から水が出ていた。


壁龕
これがイズニークタイル最盛期のトマトの赤と呼ばれる色。下部に赤い釉薬が盛り上がっているのが分かる。
この頃は黄色い釉薬はまだなかった。黄色い釉薬が使われたタイルは時代が下がったもの。


三層の泉の上のタイル装飾とステンドグラス
トプカプ宮殿ハーレム ムラート三世の間 三層の泉上のタイル装飾 THE ARCHITECT AND HIS WORKS SINAN より

タイル装飾も良いがステンドグラスもモスクのものとは文様も色調も異なっていて、タイルの色とよく似合っている。
トプカプ宮殿ハーレム ムラート三世の間 三層の泉上のタイル装飾 THE ARCHITECT AND HIS WORKS SINAN より


そして、『SINAN』にはこんな平面図もある。
トプカプ宮殿ハーレム ムラート三世の間の下のプールのあるレベルの平面図 THE ARCHITECT AND HIS WORKS SINAN より

この平面図を見て思い出した。部屋を出て、
⑱寵姫たちの個室を眺めながら⑰寵姫たちの中庭を奥まで進むとガラタ塔の見える場所があった。写真ではわずかに写っているだけだが、結構広く外が見える場所だった。

その下はこんな風になっていて、

右下は倉庫だろうか。

左下にはこんなところがあり、確かプールですとガイドのアイシャさんに説明を受けたことを思い出した。

こんな日の当たらないところにプール? とあまり力を入れて写さなかったが、こんなところで水浴びをしたのだろうか。



             →アトメイダヌ広場で行われた行事

関連記事

参考文献
「図説イスタンブール歴史散歩」 鈴木菫著・大村次郷写真 1993年 河出書房新社
「THE ARCHITECT AND HIS WORKS SINAN」 REHA GÜNAY 1998年 YEM Publication 
「トルコ・イスラム建築紀行」 飯島英夫 2013年 彩流社

2024/03/15

建築倉庫に行ってみた


かなり以前に見たテレビ番組で知った建築倉庫にやっと行くことができた。
JR品川駅から歩いて約10分。天王洲橋からWHAT MUSEUMの白いWMの文字が、濃いグレーの建物にくっきりと見えた。

新東海橋を渡って、正面に建築倉庫の建物が見えても
途中に横断歩道がなく、かなり過ぎたところで渡ることになった。


建築倉庫ミュージアムにはいろんな展示スペースがあって、一番見たかった建築模型の並んでいる建築倉庫は撮影禁止のため、画像はないので説明するのは難しいが、模型保管庫が展示室になっているので、人の胸よりも下には模型を搬入した時の箱が積んである。それがこっそり「倉庫」に入り込んで見ているような感覚にとらわれて、ゆっくり見ていたいけれど、あまり長居できないような気持ちになる。
一つの建物や空間を創り出すのに幾つかの工程が展示されているもの、計画だけに終わってしまったものなどもあったが、人の姿も建物の中に登場していたり、広い空間を散策していたりしていて、興味深く拝見した。


その後「No Photo」マークのない作品なら写しても良い展示会場へ。

まずは一階の「感覚する構造 力の流れをデザインする建築構造の世界」へ。


展覧会概要は、1923年の関東大震災から、今年で100年が経ちます。われわれ人類は、地震力や風力をはじめ自然の力が及ぶ世界に生き、さらには地球という重力空間において、建築における力の流れをどうデザインしてきたのでしょうか。
そうした力の流れや素材と真摯に向き合い、技術を駆使し、建築の骨格となる「構造」を創造してきたのが、構造デザインの世界です。「建築家」と構造をデザインする「構造家」の協働により、数々の名建築が生み出されていますが、構造家や構造について詳しく紹介される機会は多くはありません。構造家は数学や力学、自然科学と向き合い、計算と実験、経験を積み上げた先に、やがて力の 流れが自身の中に感覚化し、感性を宿すといわれていますという。
建築家は知っていたが、「構造家」という職業さえ知らなかった。


SPACE1の感覚する構造の中の「A建築家と構造家との協働」は、スペインの構造家エドアルド・トロハは、『Philosophy of Structure』(構造の哲学 1951年)の中で、「構造物全体の誕生は、創造的な過程の結論であり、技術と芸術、発想力と感受性との融和であります。・・略・・そしてどんな計算より重要なところに着想(アイデア)があります。」と述べています。
構造家佐々木睦朗は、建築家との双方に刺激しあうコラボレーションの中で、まさにその着想を展開し、新たな構造システムを構築、歴史を刻む建築の創造と飛躍にたずさわってきました。
本テーマでは、構造家佐々木睦朗と建築家磯崎新、伊東豊雄、妹島和世、西沢立衛の協働による作品を紹介致しますという。

せんだいメディアテーク

構想1
絵を見ているだけなら、バネのようなものを並べた見下げ図

構想2
側面図?正面図?

その模型
所蔵:佐々木睦朗 竣工地:宮城 竣工年2000年 建築設計:伊東豊雄建築設計事務所 構造設計:佐々木睦朗構造計画研究所
全体として円柱の太さがまず違っているし、一つの階ごとに円柱の傾きが異なっている。これでバランスが取れいているって面白い。

反対側から見ると意外とまっすぐ。


このスペースには現代的な建物だけでなく、古代ローマの建物の半分の模型もあった。パンテオンが「古代から・・・」ということだった。

パンテオン 
正方形からドームを導くのは難しいが、円形からなら持送ってドームを架構するのは無理がない。しかし、古代ローマでは円錐ドームしか造れずにいた。完全な円形のドームができた最初の建物が、このパンテオンだった。
パンテオンについての記事はこちら
パンテオンに至るまでのドームが複数残っているヴィッラ・アドリアーナの記事はこちら
双方の建物はハドリアヌスが建てた。

パンテオンD 模型縮尺:1/150 模型製作:浦勇樹、内田涼大、田中悠仁 所蔵:東海大学工学部建築学科
竣工地:ローマ 竣工年:前27年創建、80年頃焼失、128年頃再建
設計:創建アグリッパ 再建ハドリアヌス
説明パネルは、古代の石積みドームの発祥に始まる曲面により空間を覆う構造。経線方向はアーチと似た構造だが緯線方向にも抵抗できるため、かたちがある程度自由にできることが特徴。ドーム構造の応用がその後のシェル構造へとつながる。
パンテオンは直径高さ43mの半球形のドーム形状をしており、頂部には直径8.9mの天窓が開いている。火山灰をセメントとする無筋コンクリート構造で、内面はドームの厚みをえぐり取ることで重量の軽減を図り、装飾的な格子天井としている。ドームの厚さは上部は 1.4mで下方に向けて徐々に厚みを増している。ドームの基部は階段状に厚みを増してスラスト(外に開こうとする力)に対する抑えの役割を果たしているという。
断面図と違って、ドームの頂部から下部へと次第に壁の厚みを増していく様子が立体的に感じられる。

パンテオンは格間の美しい並びをただただ見上げていたが、模型なら見下ろせる。

3柱間の柱廊につづく長方形平面の玄関間から、円形平面の堂内への移行。

柱廊は見学した当時は修復中だったが、柱頭はこんなに大きくにぎやかではなかった。


別の部屋に行くと、木造のヴォールトや模型があった。


密な格子の構築物の前にあったのは、
左:三方格子
切り欠きを入れた角材の切り欠きを半分ずつずらして組み合わせることで、 釘も金物も用いず立体架構を作ることができる。
この展示空間にも使われている。

右:アリ継ぎ三方格子
外れ難くするため、伝統工法で用いられる「アリ継」を施した三方格子 (説明パネルより)

そのサンプル
説明パネルは、右にあるサンブルで挑戦してみてくださいという。こんな面白いものと戯れていたいけれど時間がなかった。

その隣にあるのは、
右:プッシュアップ構造
長い竹を放射状にレシプロカル構造で組み合わせ、根元を持ち中心に向かって押し上げることで立体架構を構成する。
47都道府県構造マップの和歌山県「竹象庵」の屋根の構造

左:レシプロカル構造
お互いをテコにして成立する“あいもち構造”
接合金物などを用いることなく空間をつくることができる。 (説明パネルより)

こういうのも興味深い。
和歌山県「竹象庵」というのは、アドベンチャーワールドにある「自然体感型の竹製テレワークスポット」みたい。

そしていよいよ木製のヴォールトの中へ入ると、竹製品が展示されていた。


それだけではなかった。なんと、木材と思い込んでいたものは、よく見ると竹の集成材なのだった。



その後、「感覚する構造-力の流れをデザインするは仏教建築構造の世界」のコーナーへ。

浄土寺浄土堂 小野
説明パネルは、日本建築においては古来より柱に貫を貫通させ、楔等によって両者をしっかりと留めつける「貫構法」によりにラーメン構造を成立させてきた。浄土寺浄土堂はその中でも大仏様建築の傑作である。大仏様における構造の特徴は柱に何段もの挿肘木や貫を挿入することで水平力に対して強い抵抗力を持つ。内部空間は、中央の四天柱が屋根裏まで伸びていて、四周からそれぞれ3段の虹梁が四天柱に取り付いているという。
快慶作阿弥陀三尊立像が中央の丸い壇の上に安置されている
三段の虹梁については正面かは見えない。

正面に三段の虹梁が二列見えているのだが、


結局この写真の方がよく見えていた。
宝形造のため、頂点から四隅に渡した隅棟から多数の垂木が出ていて、両端に至っては、別の垂木群が傘の骨のように出ている。

先ほど出てきたラーメンについての解説

ラーメン RAHMEN 
説明パネルは、柱と梁を強固につなげたフレームによって地震や風に抵抗
ラーメンとはドイツ語で「枠」という意味。
地震や風といった横からの力に抵抗するための構造形式の一つである。
柱と梁を単純につなげるだけ(ピン接合)では不安定だが、接合部を強固に接続する (剛接合)ことで安定性を確保しているという。


それに対してのトラスの解説は、

トラス TRUSS
説明パネルは、棒状の部材を三角形に組んだ構造。
梁のような棒状の部材は曲げる力に弱いが、三角形に組むことで曲げる方向に力がかかりにくい仕組みになっている。
そのためトラスは剛強で安定しており、いくつも連結することで大規模な架構を構成することができるという。


そしてその模型

白川郷合掌造り民家・旧田島家
模型縮尺:1/5 模型製作:高橋俊和 (都幾川木建) 所蔵:白川村教育委員会
竣工地:岐阜県 竣工年:江戸時代中期
説明パネルは、迫り持ちトラスを利用した合掌造りの建築。雨量の多い村の気候に合わせ、急傾斜の屋根となっている。合掌造りは軸組と小屋根が分離されているのが特徴的で、1階は居住用、2階以上は蚕室などに用いられる。2階床を構成する陸梁が、合掌材と呼ばれる登り梁の脚元に生じるスラスト力 (外に開こうとする力)を抑えることで、迫り持ちトラスを構成しているという。

蚕室の床を支えているつなぎ梁は、合掌材との交点における中間荷重を受けることができる。接合部は縄締め、梁端は先の尖った駒尻により置かれるといった簡易な接合ながら豪雪にも耐えうる強度を持つという。


続いて二階の「心のレンズ」へ。
その展覧会の概要は、この展覧会は、IT分野で活躍されているコレクターの竹内真氏が、約5年前から収集をしてきた現代アートと家具のコレクション「TAKEUCHI COLLECTION」をご紹介するものです。

竹内真氏のコレクターズノートは、僕は、抽象的な作品を見るとき、大凡自分と同じ世界を生きて、かつ似たようなものを見て、聞いているのにも関わらず、その彼らの心のレンズを通した結果、このような作品が生まれるのだろう、彼らの人生の中で作り上げられた心のレンズが一体どんなものなのかを想像してしまいます。しかし、その想像の中にあるレンズもまた、自分自身が経験したものの中から考え得るレンズでしかないわけで、おそらくその予想は全て外れているのでしょう。もし、今日、誰かと一緒にこの展示を見に来ていたら、その人と同じ作品を見て、作家の心のレンズはどのようなものだと思うのか、話し合ってみてください。結局は、 それはお互いの心のレンズを話し合っているようなことでもあり、それはきっと、お互いの仲をさらに深めていくことだと思います。

ピエール・ジャンヌレがデザインした椅子約20脚を使用したインスタレーションでは、その個体がもつ特徴を多角的な視点から堪能することができますという。
椅子が宙に浮いていて、まずは椅子そのものよりもその展示の仕方にびっくり。そして見上げながら、見下ろしながら一周した。

インド北部のチャンディガール都市計画
説明パネルは、1950年代に近代建築の巨匠と称されるル・コルビュジエ (1887-1965)が中心となって計画しましたが、従兄弟であり仕事上のパートナーであった建築家ピエール・ジャンヌレ (1896-1967)が重要な役割を果たしていました。ジャンヌレは、現地の監督として約15年間インドに住み、地元の文化、気候、素材などを研究し、建築だけでなく、建物内の家具も多く手がけます。
このオフィスチェアは、主にチャンディガールの行政施設などのために製作され、都市計画のために作られた家具の中でも代表的な存在になっています。当時、用途に合わせた様々なタイプの椅子が製作されましたが、本展では「逆V字レッグタイプ」と「X字レッグタイプ」の椅子をご紹介していますという。

背もたれや座面の籐細工が涼しげ。チーク材は現地で調達、籐編みも現地の手工芸としてあったという。


多くの職人が基本となる図面と指示をもとに製作しましたが、職人の裁量や製作方法により変更が加わることがあり、同じタイプであったとしても大きさや比率、部材の太さや角度の異なるものが作られたと言われていますという。 
チャンディガール都市計画の時につくられた椅子 建築倉庫のパネルより


4名による書斎空間
説明パネルは、ここでは1930年代のフランスで時代を同じくして活躍し交流していた4名による家具を取り合わせ、書斎空間を演出しました。
ル・コルビュジエのデスクには、ピエール・ジャンヌレの椅子を合わせています。二人は従兄弟でもあり1922年にはパリに事務所を共同設立し数々の建築作品を手掛けました。ウォールランプのシャルロット・ペリアン (1903-1999)も彼らの事務所に所属し共同制作者として数々の建築やインテリア家具を残しています。度々来日して柳宗理らと交流し日本のデザイン界に大きな影響を与えたことでも知られています。デイベッドのジャン・プルーヴェ (1901-1984)は、金属工芸家としてキャリアをスタートさせましたが、敬愛するル・コルビュジエらと協働し、家具だけでなく建築デザインへと創作の場を広げ、フランスの建築生産の工業化で大きな役割を果たした建築家ですという。
このデスクのシンプルさが気に入って写したら、後で Le Corbusier の作品だと分かった。ルコルビュズィエをルコルビィジェと言う人が多い中、本展覧会ではフランス語に近い発音で表記されていて嬉しかった。ただ、従兄弟の姓ジャンヌレは、ルコルビュズィエの本名 Jeanneret-Gris の一部でもあるが、ジャヌレなので残念。
もう一つ残念なのが、ウォールランプが写っていないこと。左端の壺が気になって、どうしてもそれを入れて写した結果ですわ。


トライアングル ローテーブル ピエール・ジャンヌレ
Xレッグアームチェア     ピエール・ジャンヌレ
三角のテーブルは物を置きにくい気がするが、アームチェアの足はXレッグの方が安定感がある。


そして最後は、

リオ ロッキングチェア オスカー・ニューマイヤー
説明パネルは、ブラジル近代建築の父といわれるオスカー・ニーマイヤー (1907-2012)が1974年にデザインした ロッキングチェアは、美しい曲線が特徴的です。建築にも活かされている「曲線」は、自然の造形や女性の体からインスピレーションを受けたと言われています。
本作は、天童木工のブラジル工場で製造され、当時のラベルが残っている希少な作品です。ニーマイヤーは様々な人と協働作業することでも知られていますが、今回展示されているル・コルビュジエの影響も強く受けており、国連本部ビル (1952 年 アメリカ、N.Y) を共にデザインしていますという。
長身の人には心地よく憩えそうなフォルムだが、私の短い脚では腰に負担がかかるかも・・・


雨が降って暗い上に、夕刻が迫ってもう照明が点いていた。来た時とは別のふれあい橋を渡って帰った。



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参考にしたもの
建築倉庫の説明パネル

参考文献
「日本建築史図集」 日本建築学会編 1980年新訂第1版 彰国社