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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2014/03/07

もう一つの十字軍の拠点、クラク・デ・シュヴァリエ



クラク・デ・シュヴァリエは、シリアにある元十字軍の要塞である。訪れたのは1997年とかなり以前のことで、写真も色褪せてしまったが、この機会にまとめておく。
クラク・デ・シュヴァリエは丘陵の頂部に建設されている。
春に行ったので、景色に緑があり、花も咲いていた。その道中には養蜂家が黒いテントを張って、ミツバチの箱をあちこちに置いてあった。

『THE KRAK OF THE KNIGHTS』(以下『KRAK』)の年代記より。
11世紀の終わり、十字軍はヨーロッパ各地から中東を侵略しにやってきた。そしてパレスティナからアナトリアまでのシリア沿岸地帯を占領した。
土地の住民たちの奇襲に備えて、たくさんの要塞を築いた。
クラクはフランク族の侵略者たちとイスラーム軍の戦いを物語る城の一つである。
クラクが建てられるずっと以前、「丘の城」と呼ばれる小さな要塞があった。後世には「ヒスン・アルアクラド」(クルド人の城)として知られるようになった。1011年ホムスのアミールがクルドの軍隊を駐屯させた。
1110年6月、アンティオキアの王子タンクレドの命により、十字軍は小さな要塞を占拠した。

彼らはクラクを城として改築した。それは4000名の駐屯軍を住まわせる最も重要なものとなった。
いっときに全て建設したのではなく、危機に直面する度に新たに付け足すという風だった。その上、162年の十字軍の占領期間におきた度重なる地震(1157、1170、1201、1202年)のために、修復も行わなければならなかった。クラクの所有は、アンティオキア伯国からトリポリ伯国へ、そして1142年には病院に譲られた。その後イスラームに取られるまでその状態が続いた。
1163年、ダマスカスのスルタン、ヌールッディーンは城塞を攻撃し、その軍隊は城の下にあるブカイヤ渓谷でフランク人たちと会った。そして1188年、サラディンは包囲した。
1271年の冬、アルザヒール・バイバルスがフランク族にいまだ占領されている地域を解放しようとする努力は、クラクと共に始まった。軍隊が攻撃を始め、城を占拠する前に、数日包囲し、投石器の弾で困らせた。フランク族が諦めて降伏したとき、バイバルスは寛容さを示して占領した。後日、バイバルスは破壊された箇所を修復した。

『知の発見双書30十字軍』は、フランク人が初めて大々的な要塞建築を始めたのはいつごろのことだったのだろうか。
クラックについていえば、1142年に、聖ヨハネ騎士団がクラックを買い取って占有した時代までくだって考える必要がある。ところが、この場所にフランク人が最初に建てた建造物は、今日まで残っていないはずだ。というのは、1157年と1170年に地震があり、シリアのフランク人の要塞は惨さんたる被害を受けたからである。アラブ人の年代記作者は、クラックで1170年に地震が起き、キリスト教徒は、恐れおののきながら自分たちの教会の丸天井が崩れるのを見ていたと書いている。(略) ところが、今日残されているもののなかで一番古い主要な部分なのである。したがって教会は、1170年以降に建てられたものであろうが、おそらく災害のあと直ちに建設されたに違いないという。


クラク・デ・シュヴァリエの平面図(『KRAK』より)
内側から第1城壁(1170以前)、第2・第3城壁(12世紀後半)

中央入口へ 第3城壁東側
右端の白っぽく四角い建物は、上下二重構造になっている。

①尖頭ヴォールト天井の傾斜路を上っていく。
②は外側から見えた四角く出っ張った建物で、傾斜路から下の部屋に通じている。

③ 厩舎
3000頭の馬が飼育されていたという。井戸が入口左手にある。

④ 踊り場の空間
右は入口から通ってきた傾斜路、左は内部へと続く傾斜路。
大きな切石を積みあげた尖頭横断アーチと、砕石を並べた交差ヴォールト。
 
⑤ 角塔
内部はリブのない四分ヴォールト天井となっている。
外側には向かい合って伏せる2頭のライオンが表されているが、これはフランク族の作という(『KRAK』)。
その続きの⑥第2城壁
銃眼が等間隔で並び、壕から見上げると丸い監視塔が2つ(右から⑦⑧)ある。

内部に戻り、傾斜路の続きを進む。
完全な交差ヴォールトもないみたい。

⑨ 塔
通路の尖頭天井から外を見ると、左に第2城壁の出っ張りがあるが、その内側は⑩礼拝堂がある。

右向こうに幅の広い尖頭アーチの連続する⑪アーケードが見えた。

⑫ 貯蔵庫
『KRAK』は、重厚な支柱が5列あり、その上にトンネルヴォールトが架かる。天井には天窓がある。この部屋につながる通路は120mの長さがあり、厨房の跡がみえ、それでこの列柱室が貯蔵庫として使われたことがわかるという。

⑬ 倉庫
⑭ 大きな油壺がある倉庫

駐屯軍に支給する物品がここで保存されていた(『KRAK』より)。
⑮ 倉庫


⑯ 長さ120m、高さ10mのヴォールト天井、幅8mの大きな部屋
12のトイレがある
(『KRAK』より)
これが一連のトイレの一つ。

⑰ 広間

同書は、南北方向に建てられ、長さ27m、幅7.5m、柱間3つに交差ヴォールト天井が架かっている。会議や接見室に使われたという。
クラク・デ・シュヴァリエで最も古い部分に、最もゴシック様式らしい天井があった。二重のリブが、起拱点から天井の角頂点へと向かい、奥の間に通じる扉口の上は、幾重にも尖頭アーチを重ねたアーキヴォルトは大聖堂のように華麗だ。とても要塞とは思えない。
起拱点には草花の浮彫など、戦いとは無縁の装飾がある。複雑なアーキヴォルトが3つの起拱点からそれぞれ架かっている。

中庭へ出ると、広間は外観もやはりゴシック様式らしいものだった。

⑱ 第2城壁の上へ向かう階段から上へ上がり、⑧の監視塔へ。

そこから360度の展望を楽しんだ。左方向にある東地中海は、さすがに見えなかったが。
⑲ 王の娘の塔
左の監視塔の向こうに見える四角い塔、現在は食堂になっている。アラブ料理はこの旅行では毎日楽しんで食べていた。特に鶏肉の炭焼きは、何処で食べたよりも美味しかった。
監視塔の右の低い建物が⑰広間で、その向こうの小高く四角い建物が礼拝堂。

⑩ 礼拝堂
『KRAK』は、長さ21.5m幅8.5m。身廊は3つのヴォールトからなっている。その奥には大アーチの下に開かれた後陣がある。
この礼拝堂はイスラームの征服後、モスクとなった。ミンバル(説教壇)を今も見ることができる
という。

1170年の地震以前の聖堂は丸天井、つまりドームがあったらしい。
その後すぐに再建されたものは、2つの尖頭横断アーチと3つの尖頭ヴォールト天井が続く奥に後陣のある、すっきりとした内部構造と変化した。
装飾がないので、モスクとなりミンバルが設置されていても違和感がない。
東側には集落も望める。
⑦の監視塔が左端に入るため、⑤のライオンの浮彫は見えない。

南西より見たクラク・デ・シュヴァリエ
⑳水道橋はこの方向からしか見えない。

『知の発見双書30十字軍』は、ヨハネ騎士団は聖地のフランク人諸国家が滅亡した後も存続した。1309年にはロードス島を占領し、オスマン・トルコに征服されるまでとどまったが、ついにマルタ島への撤退を余儀なくされたのであるという。

帰りには、クラク・デ・シュヴァリエから近い集落の一軒で、村人たちが婚礼を祝う踊りがにぎやかに行われていた。

尖頭交差ヴォールト天井はゴシック様式

関連項目
ロドス島6 ヨハネ騎士団長の館1
ロドス島7 ヨハネ騎士団長の館2

※参考文献
「LE CRAC DES CHEVALIERS/THE KRAK OF THE KNIGHTS」 Dr.ABDULKADER RIHAOUI 1996
「知の発見双書30 十字軍 ヨーロッパとイスラムの対立の原点」 ジョルジュ・タート 1193年 創元社