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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2010/07/02

サッカラのピラミッド複合体4 階段ピラミッドは世界初の石造り


「列柱廊」から中庭に入りそのまま直進して階段ピラミッドの中心線の延長上あたりで立ち止まった。
『吉村作治の古代エジプト講義録上』は、目を北に向けると、中庭をはさんだ向かいには、透き通るような青空を背景に、巨大な階段ピラミッドが、強烈な太陽の日差しを浴びて、さんさんと輝いている。闇から光りへのあざやかな転換。それは、天才イムヘテプによって見事に計算され、演出された効果であったに違いないという。
1996年当時はエジプトの空は空気がきれいだったのだろう。2010年ではカイロもギザもサッカラも、車の排気ガスと思われるどんよりとした曇り空だった。従って闇から光というほどの印象はなかった。

初層の外側は左(西)側のみ残っている。
ガイドさんは、ジェゼル王の階段ピラミッドは、それ以前に造られていたマスタバという形の墓を積み重ねて造られました。それまでのマスタバは日干レンガで造られていましたが、階段ピラミッドは、初めて石で造られた建物ですと言った。
足場を至るところに組んでいる。修復作業をしているので、今までなら見られなかった部分が見えているのかも。しかし、図解を見ても、立面図であるために、平面ではどのように拡張されたのかがわからない。
中央のところでは内部に空洞があるのだろうか。1段目は小さな石が積まれ、増築部分には大きな石が積まれているらしい。一番外側の白く大きな石積みは現代の修復部分だろう。
さて、マスタバとはどんなものか。  

王妃ネイトヘテプ墓の復元図と平面図 ナカダ出土 初期王朝第1王朝(前3000-2890年頃)
ネイトヘテプ王妃はナルメル王の妃らしいので、第1王朝でも早い時代のものだ。このような形の墓がマスタバと呼ばれている。
『吉村作治の古代エジプト講義録上』は、上下エジプトを統一する第1王朝が誕生し、初代のナルメル王によって都の地に選ばれたのがメンフィスであった。首都メンフィスに近い下エジプトのサッカラには、王族や貴族たちが、マスタバとよばれる墓をつくるようになった。
マスタバとはアラビア語でベンチを意味する言葉であり、日乾レンガを積み重ねた地上部分の外形がベンチに似ていることからあとの時代につけられた呼称である。その地下にはいくつもの部屋がつくられ、遺骸とともに大量の副葬品がおさめられているという。
ジェゼル王のピラミッド複合体の周壁とこのマスタバの壁面はよく似ている。エジプトの伝統的な「原初の水から出現した陸」を表しているのだろうか。
ナカダⅠ期文化(別名、アムラ文化)では日乾レンガはなく、ナカダⅡ期文化(別名、ゲルゼ文化)になると日乾レンガが出てくる。ということは、日乾レンガはもともとエジプト固有のものではなく、この時期に、おそらくはメソポタミアあたりから、伝わってきたものと思われるという。
日干レンガがメソポタミアから伝播したものだとしたら、このような凹凸のある壁面もまたメソポタミア起源かも。    

吉村氏は、従来、これはマスタバを積み重ねてできた形であるといわれてきた。たしかに、エジプト国内の建築物を見ている限りにおいては、そう考えるしかない。
しかし、もっと広い観点からエジプトの周辺にまで目を向けると、そこに私たちは階段ピラミッドとよく似た形の建築物を見ることができる。それは、メソポタミアの各地に存在していたと伝えられる神殿、ジッグラト(聖なる塔)であるという。  
そして挿図としてウル第三王朝のジッグラト復元想像図があげられている。それはジッグラトの起源で紹介したウルのジッグラト復原図とほぼ同じだ。
ウルの第一王朝がジッグラトを造った最初であるが、それは紀元前2600年頃で階段ピラミッド建設の少し前のことである。しかも、このジッグラトは天界と地上を結ぶはしごと考えられていた。
階段ピラミッドを表す「イアル」とは、「階段」とか「はしご」という意味であることを考えると、両者に何か共通するものを感ずるのである。
もし、イムヘテプがメソポタミアからの帰化人だったとするなら、その脳裏には、故国で見たジッグラトの姿が焼きついていただろう ・・略・・
階段ピラミッドは、マスタバの延長というよりも、むしろメソポタミアのジッグラトをそのルーツとしているのではないかという。 

メソポタミア好きの私は、吉村氏のエジプト初の階段ピラミッドの起源はメソポタミアのジッグラトという説が気に入り、そう信じてエジプトへと旅立った。
ところが、吉村氏の説から10年以上もたっているのに、ガイドさんはマスタバを積み重ねたものという話をした。しかもこのガイドさんは「つい先日DNA鑑定の結果が公表されて、ツタンカーメンがアクエンアテン、すなわちアメンヘテプⅣの子供であることがわかりました」と常に最新情報をチェックしている人だった。
今回の旅行で、ひょっしてマスタバを積み重ねたものだということが解明されたのかも、と思うようになった。吉村氏も今ではマスタバ説になっているかも。  

「世界美術大全集東洋編16西アジア」は、楔形文字の世界が教えるところ、ジッグラトという単語は「高きこと」あるいは「頂上」を意味するアッカド語に由来する。
彼ら(1940年代のドイツとフランスの学者)の主張によると、ウル第3王朝のウルナンム王が、ウルのほか、ニップル、ウルク、エリドゥのジッグラトの形式を一新し、階段状の基壇をもつジッグラトの様式を確立した。この見解は今も広く受け入れられているという。
ウル第3王朝のウルナンム王は在位が前2112-2095年なので、残念ながら吉村氏の説は成り立たない。
しかし、ウルナンム以前の時代、あるいはのちの時代でも文献上の記述が残っていない遺跡についてとなるといささかおぼつかないということなので、今後の発見で吉村氏の説が正しいことになる可能性もある。
メソポタミア地図はこちら    

※参考文献
「吉村作治の古代エジプト講義録上」(吉村作治 1996年 講談社+α文庫)
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」(2000年 小学館)