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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2012/09/28

玉門関3 漢の長城


玉門関に行きたかったもう一つの理由は、近くに残っている漢の長城を見たかったからだ。

『歴史アルバム 万里の長城』は、『漢書・西域伝』に、「漢の武帝の元鼎5年(前112年)60万の労働者によって長城を築いた」とある。
玉門関以西の新疆境内の漢の長城は、内地の長城と違っている。現地にある材料を使い建造しており、一層にはアシやヨシあるいは紅柳の枝をはさみ黄沙土を重ねて積み、土を突き固めて築くのである。毎層の間隔は30-40㎝で層ははっきり分かる。アシやヨシあるいは紅柳の枝は長城の筋骨の役目をし、黄土、砂石は長城の血肉となったのである。ロブノール一帯の漢代長城遺跡は、城壁の多くは倒壊し黄土層は風雨で浸食され深い横向きの溝状になっている。城の高さは2-3m、幅は50-60㎝、長さ数十mや、数百mから千m、低い所は1m-0.5m、あるいはすでに地面に接近しすぎて壁と判断できない部分がある。これが数㎞延びているという。
グーグルアースで見ると、中央のやや斜めに走った線が漢の長城です。

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実は万里の長城は、みんなこのようにワラのようなものを等間隔に土に挟んで積み上げたものだと思っていた。そして、このようなものを版築と呼ぶのだと。
ところが、トルファン郊外の高昌故城を見学して、版築の壁は細かな粒の土だけを等間隔に積み上げて造ることが判明した。
それについてはこちら

逆に植物の茎を挟んで積み上げていくこのような壁の方が珍しいものだったのだ。
それを知ってもっと見たくなったというのに、このツアーでは漢の長城見学は含まれていないのだった。というよりも、玉門関でさえ日程にはなかったのだが、飛行機の時刻が遅くなったため、空いた時間に、旅行社がサービスで玉門関まで連れて来てくれたのだった。
元封年間(前110-107年)、河西長城はまた酒泉郡から西へ玉門関まで延び、その後、亭燧(のろし)などの防御施設はさらに西へ疏勒河に沿って、哈拉湖を経てロブノール北岸まで造られた。
前漢(主に武帝の時代)には河西長城、亭障(堡塁)、列城(連続して並んで築かれた城堡)、烽燧(のろし台)を築いて、匈奴の侵犯を有効に阻止して、西域の諸属国の農牧業生産を発展させ、社会の進歩を促進した。
烽火台は、唐宋代は烽台といった。烽火台での通信は古代の最も良い連絡施設であった。烽火台の上には4、5人の生活用品以外に発煙用の種火、牛馬の糞、発火草、火池、火縄、燈籠、白旗、また燈籠、旗幟を掛ける旗杆、木梆(拍子木)、銃などがおかれたという。
これは漢代の烽火台で使用した薪積(甘粛省)の写真で、長城に土の間に挟む植物ではなかった。
数年前に、ある歴史学者の話を聞いた、騎馬遊牧民は、食糧として羊を連れて行くので、羊が越えられない程度の高さの長城を築けば良かったと。
それで、高さは1mくらいかなと勝手に決めていたが、2-3mもあったとは。しかも、高さの割に厚みが50-60㎝とは、薄すぎるように思うが・・・

山丹は甘粛省の武威市の先、張掖市の手前にある。いわゆる河西走廊の中央部にあり、張掖市の東大門になっている。歴史上、山丹は秦の時代には月氏の地で、漢の初めは匈奴に属し、後に霍去病将軍によって収復され張掖郡の所轄となった。隋の初めに山丹衛になり、今は張掖市に属す。
県内には長い長城が残っている。
綉花廟の辺りは乾燥し降水量が少ないので、必ず毎日、朝日がでる前に羊は羊小屋から駆り出し、露をつけた草を食べさせる。邢さんは毎日羊を駆って国道312号線を横断してから、南の「焉支山」の麓へ水がたまった沼を探しに行く。その後、邢さんは羊を北山-龍首山脈に属する「長溝山」の斜面へつれて行く。こういうふうに、邢さんと羊たちは綉花廟の漢、明の長城遺跡を毎日2回横断する
という。
山丹は玉門関以東にあるため、長城は土だけ押し固めた版築で造られている。
羊たちが越えている長城は漢時代の方で、漢の領土から匈奴の地へと長城を越えているところ。
当時、匈奴側からすれば羊の越えられない高い壁だったのだろうが、今では何の問題もなく羊は行き来できる。

玉門関から敦煌へと帰る途中に、漢の長城のように30-40㎝の層を積み重ねた烽火台址らしきものがあった。長城よりも厚みがあるためか、外側にだけ茎を挟み込んで造られているようだ。
漢代の長城は西に新疆ロブノールで一段落し、それからは烽燧、戍堡等の軍事施設でつながり、天山南北から西へ延びている。烽燧は漢代には亭燧といい、俗に”烽火台”といった。夜間に点火するので”烽”といい、昼間に煙を出すものを”燧”といった。新疆の烽燧はみな四方形の高台で、日干レンガ積み、また黄土にアシ、ヨシ、紅柳の枝を挟んだ夯築また石に樹枝を重ね積みした三種があるという。

数年前、新疆ウイグル自治区のクチャで漢時代のものという烽火台を2箇所で見た。

まず、背の高い方。クズルガハ土塔、または烽火台。これはどう見ても土だけを突き固めた版築なのに、昔のブログには日干レンガと書いていた。
そして玄奘三蔵も通ったという塩水渓谷にも2つの烽火台が並んでいた(どちらも日陰)。
この谷底に水がなく塩で白く見える河床があって、それがそのままシルクロードの一部になっていたらしい。
こちらは日干レンガ。こんな断崖で土を突き固めるなどということは無理。
でも2つ並べる必要があったのだろうか。

春秋戦国から、各諸侯国はみな長城を建造したが、その長さは短いもので数百里、長いものは2、3千里までで、ただ始皇帝が築いた長城だけが万里を越えるので、この時から万里の長城といわれていたという。
その残骸が各地に残っているらしい。いつか長城巡りをしてみたいものだ。

※参考文献
「歴史アルバム 万里の長城 巨龍の謎を追う」 長城小站編 馮暁佳訳 2008年 恒文社