お知らせ

忘れへんうちに 旅編に、中央アジア各地の旅に続いて、イランの旅を記載し始めました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2011/08/05

スキンチとペンデンティブは発想が全く異なる

ササン朝ペルシアのドームは、その後どうなっていったのだろう。

サルヴィスターン宮殿 5世紀?
『季刊文化遺産13古代イラン世界2』は、ファールス地方サルヴィスターンには、その後の王宮建築の発達をよく伝える遺構がある。壁面計画は3列を基本としており、その中軸に東正面から順に、中央イーワーン、主ドームを戴く中央広間、その奥に方形の中庭、さらに西の奥壁に小イーワーンが連なり、両側にヴォールトを駆使した部屋が配される。フィールザーバードの構成に近いが、当宮殿の方がより対称性を崩しているという。
フィルザバード宮殿の平面図はこちら
大ドームにはないが、北東の正方形の部屋には四隅に円柱がある。円柱からスキンチを造り、八角形とした上に小ドームが載せられたのだろうか。
方形の部屋にドームを載せるため四隅のスクィンチをアーチ状に造る技法もフィールザーバードに先例がある。この建物はバフラームⅤ世(位420-38)が建てた宮殿とする説が有力だが、煉瓦積みのドームがサーサーン朝中期に存在したことを疑問とする見解にも留意する必要はあるという。
もっと時代が下がるということだろうか。
外側からは頂部のないササン朝的なドームに見える。
イーワーンには円柱はなく、左隅にスキンチの痕跡がある。
小ドームもスキンチだったのだろうか。スキンチを隅に造ると、円柱は何も支えないただの飾りでしかない。
それとも円柱の上にペンデンティブを載せたドームになっていたのだろうか。
大ドームはササン朝の伝統であるスキンチの上に載っている。
『イスラーム建築の見かた』は、直径10mと小ぶりながら、平面が正方形をなす厚い壁体の上にドームが構築されているという。
たしかに壁体は小さな石積みだが、ドーム部はレンガを持ち送って造られている。
しかし、レンガでドームを造るということが、ササン朝ではもっと時代が下がるのではないかと複数の研究者が考えていてるようである。
サルヴィスターン宮殿がもっと時代が下がるものだったとすると、ササン朝で次に残る遺構はカスレ・シーリーンだ。

カスレ・シーリーンのうち、イマラーテ・ホスロー大宮殿 6-7世紀
『季刊文化遺産13古代イラン世界2』は、ホスローⅡ世パルヴィーズ(位590-628)は、贅沢と浪費の限りを尽くしたことでペルシア王の代名詞的存在となった。イラクとの国境にあるカスレ・シーリーンという山間の町は、シーリーンの城、つまりホスローⅡ世が妃シーリーンに捧げた宮殿を意味する。ここには本格的な大宮殿エマラーテ・ホスローと、「チャハル・カープー」(4つのポーチの意)を中心に置く大建築とがあるという。
ドームには明かり取りのためか小さな穴が幾つもあるドームが載っている。
チャハル・カープーは、記録に残る最大規模のチャハルタークであり、その形態ゆえにこれを拝火神殿とみなし、エマラーテ・ホスローをシーリーンのための宮殿とする説がある。しかし、チャハル・カープーの方もサーサーン朝宮殿、ないしは初期イスラーム時代に営まれた砂漠の城塞宮殿に通じる構えの中に置かれているほか、シーリーンが熱心なキリスト教徒だったという伝承など、拝火神殿とするには疑問も多く、こちらの建築群こそシーリーンの居城とする見方も有力だという。 
ひよっとするとキリスト教会あるいは礼拝堂だった可能性があるらしい。もしそうだとしても、西方の教会建築を採り入れたとは言えないだろう。
6世紀末-7世紀前半というカスレ・シーリーンは、やっぱり伝統的なササン朝のスキンチの積み上げ方だ。
サルヴィスターン宮殿の平面図には、ドームの四隅に円柱のある小ドームがあったが、スキンチの場合、円柱は何の役目も果たさない。もし円柱からドームが架構されたとすると、それはペンデンティブを用いたものであって、このカスレ・シーリーンよりも時代が下がる宮殿ということになる。
正方形の平面に円形のドームを載せるという架構法のひとつスキンチは、今のところササン朝ペルシア独自のものである。
しかし、そこから、コンスタンティノープルのアギア・ソフィア(現イスタンブールのアヤソフィア)聖堂(6世紀中葉)に見られるペンデンティブが考え出されたとも思えない。
スキンチとペンデンティブは、全く発想の異なるものだったのではないだろうか。

※参考文献
「イスラーム建築の見かた 聖なる意匠の歴史」(深見奈緒子 2003年 東京堂出版)
「季刊文化遺産13 古代イラン世界2」(2002年 財団法人島根県並河萬里写真財団)