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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2010/10/05

唐では丸い袋を腰から下げるのが流行か



去年の秋は騎馬遊牧民が腰に下げる腰佩が気になっていた。調べていると、腰佩の中には袋物も混じっていて、中国の俑や浮彫にも腰から袋を下げる人物が表されていた。そして、袋物にも様々な種類の物があって興味深かった。それについてはこちら
今年は平城遷都1300年ということで、奈良県では様々な特別企画が催されている。奈良県立橿原考古学研究所附属博物館では『平城遷都1300年記念春季特別展 大唐皇帝陵展』が開催され、まだエジプト呆け状態で見てきた。皇帝陵展ということもあって、実物ではなく写真だったりしたが、袋物を腰に着けた像が幾つか展観されていた。


十四国蕃君長石像 唐、永徽年間(650-655) 2002年昭陵北司馬門遺跡出土 陝西省考古研究院蔵 残存高130㎝幅56㎝厚さ37㎝ 石灰岩
同展図録は、大きな襟を折り返した胡服を着てまっすぐに立ち、右手を胸の前にの襟にかけ、左手を腰のベルトにかけている。腰の前のベルトからは様々な器物を下げる。左前には細長い小刀状の腰佩(ようはい)と鞶嚢(はんのう)を下げる。鞶嚢は径11.5㎝の円形をしたポシェット風の袋で、蓋カバーと上下にのびる帯が表現されているという。
展示室ではこんなに明るい状態でこの像を見ることはできなかった。また、像が倒れないように厳重な仕組みがあって細部を見るのは困難だったが、何とか左腰の丸い袋を確認することができた。しかし蓋カバーや上下にのびる帯はこの図版でもわからない。
陝西省礼泉県鄭仁泰墓出土の武士俑(麟徳元年、664)には袋物がなかったので、唐になると腰から袋を下げる習慣がなくなったのかと思っていた。
そう言えば灰陶加彩の女子俑(8世紀)も腰から下げていたし。胡人の風俗を真似ることも当時の流行りであった(『新シルクロード展図録』)という。同展では三彩の男子俑の腰にもあった。


三彩牽馬俑 唐、慶雲元年(710) 1995年節愍(せつびん)太子陵出土 陝西省考古研究院蔵 高78.5㎝の部分
節愍太子陵三彩の飾り馬と馬牽きが3組出土している。目の彫りが深く鼻の高い顔立ちに、胡人の風貌があらわれている。
後輪が傾斜している様子がよく分かる鞍に、黄色い鞍伏(覆い布)を被せている。その下から輪鐙の下端が見え、腹の白い帯は鞍を馬体に装着するための腹帯であるという。
馬牽きは右腰に袋を下げている。このような胡人が腰につけた丸い袋が唐で流行していたようだ。
久しぶりに鐙を見たが、どうも鐙の位置が上過ぎるように思う。節愍太子は反乱を起こして殺害された(『世界四大文明 中国文明展図録』より)というから成人はしていたのだろう。馬が大き過ぎるようにも思えないが。
上着の腰には革帯をしめて、右半身部に帯飾りを装着している。それらは、半円形の丸鞆1、方形の巡方2、丸鞆2の順に並べ、帯の先端の蛇尾は腰の後ろの帯に挿入している。また、右の腰には丸い緑色の鞶嚢を下げる。鞶嚢は円形のポシェット風の袋で、ふくらみがあり、縦方向に帯が装着されているという。
この袋物のベルトにはバックルが付いているが、まさか下側に開くのではないだろう。おそらくベルトは帯に取りつけられているのではなく、ベルトをはずして上部が開くようになっていたに違いない。そうでないと中のものが落ちてしまう。十四国蕃君長の袋物もこのような蓋やバックルのついた帯状のものがあったのだろう。 
蕃酋像佩用品、円形袋物 唐、乾陵南神道 石刻
円形袋物は匂袋や身分証を入れる魚袋と考えられているという。
袋物そのものは割れて失われているが、その下に垂下した帯の端が認められる。上の俑のポシェット風のものと同様に縦方向に帯が着けられていたことがわかる。その帯は腰のベルトに通すようにもなっていたいたらしい
山東省清州市傳家村出土の商談図(北斉、550-577)には、漢人の商人は長い紐に布製と見られる袋を下げていた。髪の毛がカールした胡人は短い紐でポケットの形状の袋物を腰に下げていたが、その後方にいるソグド人が袋物を下げていたかどうか見えないのが残念だ。ひょっとするとこのように丸く膨らんだものだったかも。

※参考文献
「平城遷都1300年記念春期特別展 大唐皇帝陵展図録」 2010年 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館
「世界四大文明 中国文明展図録」 2000年 NHK
「新シルクロード展図録」 2005年 NHK