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忘れへんうちに 旅編に、中央アジア各地の旅に続いて、イランの旅を記載し始めました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2010/10/01

エジプトの王像11 カルナック神殿とルクソール神殿を結ぶスフィンクス参道

ルクソールでは、カルナックのアメン神殿第1塔門へと続く参道にはスフィンクスが両側に無数に並んでいた。
カルナック神域のアメン神殿は長期にわたって建物が付け加えられていった。第1塔門は末期王朝第30王朝のネクタネボⅠ(前380年頃)が造ったものだが、壁体の高さが左右で異なり、未完成のままで終わっている。
吉村作治のエジプト講義録下』は、第一次ペルシア支配は百数十年にわたってつづいた。やがて第26王朝の末裔であったアミルタイオスが反逆の火の手をあげ、6年間の抗争の末にペルシア支配に終止符をうち、起源前404年、エジプト人による統一王朝を復活させる。これが第28王朝である。都は再びサイスに置かれた。
起源前380年にはネクタネボ1世のうちたてた第30王朝へと、政権が移っていく。
その第30王朝も長くはつづかなかった。ペルシア王アルタクセルクセス3世は海陸両方からエジプトを攻撃した。たちまちのうちに、エジプト軍は壊滅的な打撃を受けて敗走し、ネクタネボ2世は上エジプトに逃亡する。第二次ペルシア支配のはじまりであるという。
そうするとネクタネボⅠはこのような建造物を造る余裕のある時代を切り開いたが、完成を見ずに没したために放置されたか、ネクタネボⅡが引き継いだもののペルシアの侵略のために途中で止めざるを得なかったのだろう。


参道には様々な時代の王がスフィンクスを並べたのだろうが、現在残っているものはネクタネボⅠのものだ。
そのスフィンクスが羊頭なのはアメン神が現れるときは羊の姿だからだそうだ。羊のあごの下にはネクタネボⅠの立像がある。
スフィンクスは少なくともカフラー王(古王国第4王朝、2550年頃)の時代にはあった。王の顔をしたライオン像がピラミッドを護っていた。アメン神殿のスフィンクスは羊頭にしたため、王の像をあごの下に加えたのだろうか。
カルナックを見学した後ルクソール神殿へ向かう途中、発掘現場に通りかかった。スフィンクス参道を発掘、修復しているのだそうだ。
こちらのスフィンクスは人の顔をしている。どこまでが人頭のスフィンクスで、どこからが羊頭のスフィンクスになっているのだろう。
本来カルナック神殿の副神殿として建立されたのがルクソール神殿で、カルナック神殿からルクソール神殿に神像を運び、戻って来るというオペト祭が行われたそうだ。
現在ではバスで10分ほどの両神殿の間はスフィンクス参道で結ばれていて、その間を神像を載せた船形の神輿を神官たちが担いで通ったことがルクソール神殿の壁面に浮彫されていた。
ということは膨大な数のスフィンクスは神殿を護るためではなく、この祭が滞りなく行えるように参道を囲んでいるのだろうか。
ルクソール神殿の見学はネクタネボⅠの中庭から。低いレンガの壁がネクタネボⅠが建造した塔門の存在を示していて、その向こうにスフィンクス参道がある。こちらは人頭だが、カルナック神殿と同じくネクタネボⅠが造ったのだろう。
振り返るとラムセスⅡ(第19王朝)が建造した第1塔門。塔門の前にはラムセスⅡの倚像と立像が左右対称に並んでいたらしいが、そのほとんどは崩れて塔門前に置かれていた。そしてこの塔門にも王が敵を打とうとする図が浮彫されていたらしいのだが、日陰だったので見えなかった。第1塔門側では王の彫像や図像が魔除けの役目を果たしている。
カルナック神殿でもルクソール神殿でも、ネクタネボⅠは塔門を造り、その前に自分の彫像を置くつもりだったのだろうなあ。


※参考文献
「吉村作治のエジプト講義録下」(吉村作治 1996年 講談社+α文庫)