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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2008/06/23

薄い衣は中国でどうなったのか


18 菩薩立像 塑造 北魏(5世紀後半) 甘粛省天水市麦積山石窟第80窟東壁
『世界美術大全集東洋編3三国・南北朝』は、麦積山石窟も5世紀始めごろに開かれたと推定される。現存する塑像や壁画に雲崗様式の影響は見られず、むしろ炳霊寺第169窟や敦煌莫高窟第272窟(北涼時代)など北魏以前の十六国期塑像の伝統が認められるという。12の炳霊寺石窟第169窟仏立像と同様に細身だが、着衣はこの像の方が厚い。 19 仏坐像及び立像 雲崗石窟第20窟  雲崗石窟初期(北魏、453-470)
曇曜5窟の中で最も早く造立された窟。主尊は涼州式偏袒右肩(右肩に大衣がぺろっとかかる)、左脇侍の如来立像は通肩。坐像の方が薄手の着衣なのは、マトゥラーの伝統だろうか。 通肩の着衣は衣褶が深い。どちらも着衣が体に密着している。20 仏立像 雲崗石窟第16窟 雲崗石窟初期(曇曜5窟の中で最も遅い) 
服制が漢族の双領下垂式に変わった最初の仏像で、分厚い。北魏の都平城郊外の雲崗石窟では、5世紀後半、すでに薄い衣は廃れてしまったのだ。21 釈迦仏立像 成都万仏寺址出土 梁、中大通元年(529)
『中国の仏教美術』は、梁・武帝の子が入蜀後に造らせたことがわかり興味深い。全高150㎝、通肩に大衣をまとい、薄手の衣を通して体の線を見て取ることができる。こういった大衣と肉体の関係は、インド・グプタ時代5世紀の彫刻に源を発し、炳霊寺第169窟7号立像、涼州様式を継いだ雲崗初期造像にもみることができ、インドからこういうかたちを学ぶ第何波目かの流行に乗り、造られたと考えられる。通肩に着る大衣の衣文線が、右半身に大きく弧を描いて左右対称性を破るなど、中国北部ではなかなか見ることができない要素もあり、グプタ時代の像によく学んでいるという。南朝では6世紀前半にまだ仏像は薄い衣を纏っていたのだ。22 釈迦如来諸尊立像 成都市西安路出土 梁時代・中大通2年(530) 成都市博物館蔵
『中国国宝展図録』は、中国式に衣をまとった釈迦立像を中心に、菩薩像と淺浮彫の比丘像を4体ずつ、天王像と獅子をそれぞれ1対で表すという。21の薄いインド風釈迦如来の1年後に造立されたこの釈迦如来は、分厚い中国式の服装をまとっている。南朝では両方の様式が混在していたのだろうか。  23 杜僧逸阿育王像 石造 成都市西安路出土 梁・太清5年(551)銘 成都市文物考古研究所蔵
『世界美術大全集東洋編3三国・南北朝』は、左手に懸かった衣が幅広く平行線を描いている点や、左肘の下を深く彫りくぼめてい腰の屈曲を強調するなど、各所にこの時期のふつうの如来立像には見られない表現が現れている。万仏寺址出土のなかに、以前から銘文によって阿育王像と知られていた1体がある。北周時代(556-581)に入ると考えられるこの像は、体部の表現が本像と完全に一致するが、それと同じ等身像の体部が万仏寺址石仏にはさらに2体あるという。顔を見るとガンダーラ風やね。 南朝では6世紀中頃から後半にかけて、このような体の線がわかる薄い着衣の仏像が造られていたようだ。しかし、清州市龍興寺遺跡出土の仏立像とは同じ系統とは思えないなあ。
というように、南朝では薄い着衣の仏像が造られ続けたようだ。しかしそれが、清州や慶州へ伝播していったようでもない。直接インドから伝わったのかは、もっとわからない。

※参考文献
「世界美術大全集東洋編3三国・南北朝」(2000年 小学館)
「中国の仏教美術」(久野美樹 1999年 世界美術双書006 東信堂)
「中国国宝展図録」(2004年 朝日新聞社)