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忘れへんうちに 旅編では、南イタリアの旅を再開しました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2019/08/13

明治村 灯台と教会


明治村の地図(博物館明治村のリーフレットより)

67:旧帝国ホテル玄関から正面に見える大きな建物が51:聖ザビエル天主堂
せっかくなので、55:隅田川新大橋(東京都中央区)を渡っていく。
橋を撮っていたら蒸気機関車が黒い煙を吐きながら走って行った。樹木が育ちすぎて、煙しか見えないことが多い。

明治村のページは、新大橋は、明治45年五大橋の最後の橋として日本橋浜町と深川安宅町の間に架けられた。鉄材は全てアメリカのカーネギー社の製品が使われている。
竣工後間もなく、橋を渡って市電が開通し、橋の役目は一層高まるが、大正12年の関東大震災の折には、他の鉄橋が落ちる中で、この新大橋だけが残り、避難の道として多数の人命を救った。
全長180m、途中に2箇所の橋脚が立つ三径間の橋で、形式はプラットトラス型という。中央に車道を通し、両側には歩道を張り出している。路面は厚い鉄板の上にコンクリートを打ち、仕上げにアスファルト板を敷いていた。明治村に移築されているのは、日本橋側の一径間の半分、25m分である
という。

旧帝国ホテル玄関内では、ソファや椅子が各所に置いてあり、休んでいる人たちがいたがもここでは橋の端に座り込んでいた。
力感あふれるトラスと対照的に、まわりには繊細な装飾が見られる。歩道の高欄もその一例で、細かい鉄材を組み合わせたデザインは曲線を多用したアールヌーボー風で、かたい橋の印象を柔らかなものにしている。また、橋の両たもとに置かれた白い花崗岩製の袖高欄と親柱は、線で構成された橋に対し、程良いアクセントとなっているという。
橋を渡ると池があり、54:眼鏡橋やとても小さな53:灯台が。
54:天童眼鏡橋(山形県天童市)
明治村のページは、この石造アーチ橋は明治20年(1887)、それまであった木橋に替えて架けられたもので、「多嘉橋」と呼ばれた。幅7.7m、長さ13.3m、拱矢比(アーチ径間と高さの比)2.6のゆったりとしたアーチ橋で、地元の山寺石を積んで造られている。
アーチ構造の歴史は古く、紀元前4000年のチグリス・ユーフラテス地方にその原形を見ることができる。日本でのアーチ橋の初期の実例としては、江戸初期に造られた長崎の眼鏡橋があげられる。技術的には中国からの伝来と考えられ、そののち九州に多く架けられていったが、明治に入ると、欧米からの技術も加えられ、各地で架けられるようになった。日本の場合、欄干の組み立てなどには木造の技術も応用され、親柱に手摺を差し込むなどの構法がなされている
という。

53:小那沙美(こなさみ)島燈台(広島県沖美町) 眼鏡橋より眺めた 
明治村のページは、小那沙美島燈台は、広島湾から瀬戸内海への出口、宮島の脇の小さな島である小那沙美島に明治37年(1904)建造された。
日清戦争の際には広島に大本営が移され、広島の外港宇品から物資の輸送が行なわれており、日露戦争の際にも運輸本部が広島に置かれている。この燈台が造られたのは、その日露戦争の開戦前後で、わずか3ヶ月という短い期間で建造されている。
工期を短縮する目的と、急傾斜の山に造る上での便宜から、鋳鉄造の組み立て式燈台になっている。4段の円筒形燈柱に燈篭と天蓋が載せられており、高さは7m足らずである。光源にはアセチレンガスを用い、光度は60燭光、光の届く距離は約10kmであった
という。

橋を渡って池を振り返る。小さな灯台、隅田川新大橋。その奥には59:内閣文庫(東京都千代田区)
52:金沢監獄正門(石川県金沢市)から道路へ出て、
高台に移設された教会へと向かう、その石垣にササユリがみごとに群生していた。
実家の裏山に咲いていたが、見かけなくなって久しい。
蕾は濃い色なのに、開くと薄い色になる花もあるが、
ササユリは花の内側の方が濃い。と言っても、淡~い色が涼しげな花。
少しずつ傾斜を登っていると、下の道にバスがやって来たので、狙って写したのに、先が木に隠れてしまった😑

やがて現れた教会の側面は、尖頭アーチのゴシック様式にている。しかも、バットレス(扶壁)もある。ただ、ステンドグラスは、ゴシック様式時代のものとはかなり異なる。
自分の写真ではあまり良い例がないのだが、フィジャックのサンソヴール聖堂後陣のように、外から見たステンドグラスは黒っぽいだけなのだ。
ファサードへ。
明治村のページは、壁の出隅にはそれぞれ二方向のバットレスが付けられ、その上にピナクルが屹立するという。

51:聖ザビエル天主堂(京都市中京区河原町三條、明治23年、1890)
説明パネルは、16世紀に来日し、日本にキリスト教を伝えたイエズス会宣教師、フランシスコ・ザビエルを記念して建設されたカトリックの教会堂である。設計者はフランス人宣教師のパピノ神父、施工者は棟梁ペトロ横田といわれるという。
明治村のページは、正面入口の上には直径3.6mを超える大きな薔薇窓が付けられ、切妻の頂点には十字架が掲げられているという。
平面図
身廊、側廊からなる三廊式で、前に玄関を張り出し、内陣の横には聖具室を配置している。大アーケード、トリフォリウム、丸窓のあるクリアストーリーの三層からなる典型的なゴシック様式という。
基本構造はレンガ造と木造との併用で、外周の壁をレンガ造で築き、丸い高窓の並ぶクリアストーリーの壁を木骨竹小舞の大壁構造にし、内部の柱や小屋組等を木造で組み上げており、内外の壁は漆喰を塗って仕上げているという。
竹小舞は、一般住宅ではずいぶん前から見かけなくなった、割竹を組んで土壁の芯にしたもの。
外から見た時は石造だと思ったが、漆喰を塗って、切石に見えるように線刻していたのだ。
身廊上部には交差リブヴォールトが架けられ、その頂点には木彫のボスが飾られているという。
ボスとは要石のことで、紋章のようなものが描かれている。
側廊は、ロマネスク様式では巡礼者たちがミサの間にも通れる通路、ゴシック様式になると柱間が小壁で遮られ、それぞれ聖遺物や聖人を祀る小祭室になっていたが、この側廊は信者の席になっている。
複合柱は木製
ゴシック様式らしく植物文様の柱頭も木製
説明パネルは、ステンドグラスは色ガラスに白色塗料で草花模様を描き、その外側に透明ガラスを重ねて保護している点が特色であるという。
それで外から見ると白っぽかったんだ。
ところで、当時河原町三条にあったの教会の地は、今はどうなっているのだろう?河原町三条に教会はあったかな?
聖パウロ女子修道会のLaudateカトリック河原町教会は、1972年に建立された河原町教会で、京都教区の司教座聖堂(カテドラル)という。
ということは私が大学に入る少し前のことで、某ホテルの南奥にあったので、ホテル付属の結婚式用礼拝堂と思っていたモダンなスタイルの教会だった。

教会見学後はバス通りを歩いて4丁目へ。
修復中で養生で覆われて見えなかった46:宇治山田郵便局(京都の宇治市ではなく三重県伊勢市にあったという)をぐるりと遠回り。

次の目的は41:六郷川鉄橋 東京都蒲田・神奈川県川崎間の六郷川(多摩川下流)
明治村のページは、明治5年、日本に初めて鉄道が開業された時、新橋横浜間に造られた大小22の橋は全て木橋であった。イギリスから鉄材を輸入して組み立てていたのでは、間に合わないという理由であったという。
橋脚
開通の後、複線化の計画と共に鉄橋への架け替えが進められ、明治10年11月、日本最初の複線用鉄橋として、この橋が完成した。橋の全長は約500mで、本橋と避溢橋からなり、本橋部に長さ100feet(約30m)の錬鉄製トラス桁(ポニー・ワーレン型)六連が使われていたという。
ここから入鹿池を見ると、立って漕いでいるようなので、スタンドアップパドルでともしているのかなとズームしてみると、ただの釣りだった。
ボイルが設計したこの六郷川鉄橋はすこぶる頑丈であった。それを示すエピソードがある。「汽車が橋の上で脱線したことがあります。トラスの処では落ちずに、先のプレート・ガーダー(避溢橋部の構造名)の処で落ちたのです。理屈に合わない変な橋でしたが、英国流で兎に角頑丈な橋でした」という。

42:尾西鉄道蒸気機関車1号 
明治村のページは、尾西鉄道が開業するにあたり、アメリカのブルックス社から購入した機関車である。形式は2B1とよばれる前輪2軸、動輪2軸、従輪1軸のタンク式であるという。
機関車の中に入ることはできたが、どこで運転していたのか不明。

山側では、ちょうどSL名古屋駅の先で、機関車の転回作業中だった。

そして歩いていると妙なもの発見。
説明パネルがあった。
台場鼻潮流信号機というものらしい。
山口県下関市竹子島にあったもの。

続いて3丁目へ

灯台の手前に霧砲(明治38年、中国大連湾口 南三山島灯台)
説明パネルは、霧砲は濃霧時に安全に船舶が航行できるようにするための霧信号の装置の一つです。この霧砲は、灯台の光が届きにくい濃霧時に、火薬を爆発させ陸地の存在を知らせたものですという。

29:品川燈台 
明治村のページは、この燈台は品川沖の第ニ台場の西端に建てられ、明治3年(1870)3月5日に点燈された。
品川台場は、江戸防備のため江川太郎左衛門の計画に基づき幕末に急造された人工島で、当初は大砲を備えていた。
観音崎など他の燈台がなくなった現在、現存最古の洋式燈台として貴重な遺構である。

避雷針先端までの高さ約9m、円筒形レンガ造で、基礎、入口廻り、螺旋階段、デッキの支え等に石材を組み入れているという。
石油による光で100燭光、光源の高さは地上から19尺(約5.8m)海面上52尺(約16m)、光の届く距離は約18kmと記録されているという。
島根県の日御碕灯台のレンズ(48万カンデラ)と違って、小さくてかわゆい。
円形の出っ張りを支える軒下飾りまである。
内部には入れなかったが、こんな造りの石製の螺旋階段はカルカソンヌの城壁で見ていたりで、懐かしかった。
ここから見える入鹿池は対岸の集落が長閑。

市電品川灯台駅には京都市電の展示と線路はあったが、動いている電車はいなかった。
いろんな建物を見学しながら歩いて行くと、市電京都七条駅があった。
そこにちょうど市電がやって来た。
しかし、我々の目指す方向とは反対なので乗る訳にはいかない。
そこにバスがやって来たので、1丁目の正門前までショートパス。

森の小径を通って行くとレンガ造の教会の南壁に行き当たった。
白衣を纏った修道女のような聖ザビエル天主堂(京都市河原町三条)とは全然違うがっしりとした外観。
6:聖ヨハネ教会堂(京都市河原町五条下ル)
明治村のページは、この聖ヨハネ教会堂は、明治40年(1907)京都の河原町通りに建てられたプロテスタントの一派日本聖公会の京都五條教会で、二階が会堂に、一階は日曜学校や幼稚園に使われていた。中世ヨーロッパのロマネスク様式を基調に、細部にゴシックのデザインを交えた外観で、正面左右に高い尖塔が建てられ、奥に十字形大屋根がかかる会堂が配された教会である。正面の妻と交差廊の両妻には大きな尖塔アーチの窓が開けられ、室内が大変明るい。また構造自体がそのまま優れたデザインとして外観・内観にあらわれているという。
この教会もまた京都の、しかも同じ河原町通りに建てられたものだった。この辺りはかつてはよく通ったが、教会の記憶はない。Google Mapで見ると、現在の聖ヨハネ教会は、聖堂の様式とはかけ離れた普通の建物なのだった。
構造は、一階がレンガ造、二階が木造で造られ、屋根には軽い金属板が葺かれておりこれは日本に多い地震への配慮とも考えられるという。
木材は2階各所に見られる。
ステンドグラスはどうなっていのだろう。
入口脇には角柱ながらアカンサスの葉の柱頭を配している。

平面図(説明パネルより)
1階は砂場のようになっていて、子供達が遊んでいた。
2階へは鐘楼の階段から。
鐘楼には左端の梯子を登っていったみたい。
ほとんど幅のない側廊と広い身廊。身廊から祭壇までが広く大きな小屋組天井になっている。
十字形平面の会堂内部は、化粧の小屋裏をあらわし、柱などの骨組が細目に見えることもあって、実際より広く感じさせる。京都の気候に合わせて使ったと言われる天井の竹の簀も、明るい窓の光を反射させ、より開放感を増しているという。
十字交差部は、身廊に直交する翼廊を小さな小屋組とし、それを支えるための木材を駆使した構造が露出している。
京町家は土間の通り庭から天井までが高く、梁や柱、土壁などが見える構造になっている。京町家だけでなく、母の実家もそうだった。
そんな見える構造を、宣教師として来日した建築家ガーディナーは好んで応用したのかも。
節が見えたので、竹簾には気が付いていた。
そして西ファサードのステンドグラス
照明の傘
地上から屋根の銅板葺きが見える教会って珍しい。

1丁目の中央部にある8:西郷從道邸へ。
明治村のページは、木造総二階建銅板葺のこの洋館は、明治10年代(1877-86)のはじめ西郷隆盛の弟西郷從道が東京上目黒の自邸内に建てたものである。二階各室には丈の高い窓が開けられている。フランス窓と呼ばれるもので、内開きのガラス戸に加えて外開きの鎧戸が備えられ、窓台が低いため、間に鉄製の手摺が付けられているという。

ちょうどガイドツアーが始まる時刻だったので、邸内に入ってみた。
暖炉の枠は瀬戸焼の一枚物の絵付けタイルで、日本三景を表しているのだとか(手前に大きなテーブルがあるので、撮影が困難)。
手摺、扉金具、天井に張られた押し出し模様の鉄板、そして流れるような曲線の廻り階段等、内部を飾る部品は殆ど舶来品と思われる。特にこの廻り階段は、姿が美しいだけでなく、昇り降りが大変楽な優れたものであるという。
手すりに手を添えて降りて行くと、手にやさしく、特にコーナーが滑らかだった。
二階のある部屋の長椅子
枠は木製に見えますが、実は竹でできていますという。
なるほど節があるので竹だ。金箔で模様が描かれている。

テラスへ。
天井は浮彫漆喰に見えたが、ところどころにサビが出ている。
押出し文様の鉄板とはね👀

テラスから先ほどの聖ヨハネ教会の2階と屋根がよく見えた。

      明治村 旧帝国ホテル玄関

参考サイト
明治村のホームページ
聖パウロ女子修道会のLaudateカトリック河原町教会