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忘れへんうちに 旅編に、中央アジア各地の旅に続いて、イランの旅を記載し始めました。
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2015/09/25

法隆寺献納宝物 如来立像の着衣さまざま


東京国立博物館本館に展示されていた木製如来立像は、法隆寺献納宝物N193だった。
それについてはこちら

如来立像 飛鳥時代白鳳期、7世紀後半 木造漆箔 像高52.6㎝ N193
その大衣は両肩左右対称に襞を作り、右手側は胴部で結んだ2本の紐の下に、左手側は右袖の方向へ、それぞれ別の形を描く襞が、右半身に表される。衣文線とはいうものの、両側が盛り上がってその稜を刻線で表されて、竹の節のよう。
大衣や裳の裾は広がるどころか、すぼまっている。

よい機会なので、東博の『法隆寺宝物館』という図録の中から法隆寺献納宝物の如来立像の着衣をみていくと、

『法隆寺宝物館』は、6世紀の前半から半ば頃、百済から日本へ仏教が伝来し、この時、金銅の釈迦像が贈られたことが『日本書紀』に書かれているが、6世紀から7世紀には朝鮮半島から数多くの金銅仏がもたらされ、日本での仏像制作に大きな影響を与えたと考えられる。日本には、三国時代に半島からもたらされた金銅仏が比較的多く残っているが、法隆寺献納宝物の3件はその代表的な作品であるという。

如来立像 三国(朝鮮)時代、6-7世紀 銅製鋳造鍍金 像高33.5㎝ N151

頭頂から足元まで全体に左右対称で、上からA字形に広がる。大きく胸元を開いた大衣の衣文もほぼ左右対称に6本ある。
その点、N193は衣文線が左右対称を崩しているので、この像よりも時代が下がることがわかる。
如来及び両脇侍立像うち如来 三国時代(6-7世紀) 銅製鋳造鍍金 像高28.1㎝ N143
裳裾は長く蓮台にまでかかる。胸元からは僧祇支と紐の結び目が見え、その下から襞が左右対称にならずに5本の襞を作っている。
N193の衣文はこの像に近いが、大衣の着方が異なる。

7世紀前半-飛鳥様式の像
同書は、7世紀前半の飛鳥文化の栄えた時期には、聖徳太子や蘇我氏とも関係があった止利仏師の工房が仏像制作の中心をなしていた。止利は、中国の北魏時代後期~東魏時代(6世紀はじめ~半ば)が源流で、朝鮮半島を経て日本に伝わった仏像の形を参考にして、神秘的で崇高な仏像を制作した。
法隆寺献納宝物には止利工房の作例が3体残されているという。

如来立像 飛鳥時代、7世紀前半 銅製鋳造鍍金 N149
両肩の大衣の衣文が左右対称に表される。胸元に僧祇支と紐をのぞかせ、左手にかかる大衣は後方に流れる。
大衣の右端は内側に隠れ、U字形の衣文線がl両袖の間に並ぶ。
N193は肩にかかる大衣の衣文線や紐の結び方が似ているが、この極端な左右対称性は失われ、裳裾も襞を表さない。

7世紀半ば-飛鳥様式から白鳳様式へ
同書は、7世紀前半の止利工房の像に典型的に示された飛鳥様式は、7世紀半ば頃になるとその表現が少しずつ変化していく。献納宝物の小金銅仏にはそのような過渡的な様相をよく示す像がみられるという。

如来立像 飛鳥時代、7世紀半ば 銅製鋳造鍍金 像高27.0㎝ N150
同書は、それらはいずれも左右対称を基本とする点は止利工房の像に通じるが、N150の如来立像では衣文の形を、左右で微妙に変えているという。
裳裾は確かに向かって左が2段、右が3段と、左右対称性を崩してはいるが、まだまだ飛鳥の面影が濃い。

7世紀後半-8世紀はじめ-白鳳様式の像
同書は、白鳳文化の中心をなす天武・持統期(672-696)には、本格的な律令国家としての体制が整えられ、仏教も全国的な規模で広まった。この時期には、7世紀前半の飛鳥文化期に流行した古い仏像の形を踏襲したり、北周・北斉・隋から唐時代初期(6世紀半ば-7世紀半ば)の中国の像や、朝鮮半島の新しいスタイルの仏像の影響を強く受けながら、それらを取捨選択して、時代の感性に合わせた仏像が次々につくられた。その形はさまざまであるが、みずみずしく伸びやかな表現を示すものが多いのが特色である。
法隆寺献納宝物の小金銅仏はこの時期のものがもっとも多く、多様性に富んだ仏像表現のありかたを知るこどかできるという。

如来立像 飛鳥時代白鳳期、7-8世紀 銅製鋳造鍍金 像高27.5㎝ N154
大衣の端が背中側でどのようになっているのか、裏側に回って見てみたいものだ。
それにしても衣文線の刻み方が稚拙だなあ。
N193とは大衣の着け方が似ている。裳裾もジグザグの箱襞を作らないし、広がらない。
あ、両手の位置が通常の如来の施無畏与願印と逆になっている。N193と同じだ。
顔は全く異なるが、N193はこの像の系統に属していたのだ。

如来立像 飛鳥時代白鳳期、7世紀後半 銅製鋳造鍍金 像高30.5㎝ N152
この像が大衣というものを纏っているのかさえ疑問に思える。右肩に布がかかるとはいえ、偏袒右肩とも思えない。左肩を覆った大衣は腹部の中央で右から回した大衣の内側に巻き込み、その端はまた出て左腕にかかっているのだろうか。
左右反対の施無畏与願印はN193やN154と共通するのだが。
この時期は倚像の如来にも同じような着衣が見られる。

阿弥陀如来倚像および両脇侍立像うち阿弥陀如来 飛鳥時代白鳳期、7施無畏後半 像高28.4㎝ N144
N154像のように、右肩の襞は少なく、左肩に密に重なり、腕の襞は広くなっている。
N193像と共通するのは、2本の紐で、この像には結び目はないが、裳あるいは裙に大衣を挟んでいる点で、膝に展開する流れが広がるような衣文線は倚像でこその表現である。

童子形の像
同書は、7世紀後半から8世紀はじめの白鳳文化期には、子供のような顔と姿をした小金銅仏が流行した。形の源流は中国の北周・斉-隋時代(6世紀後半)や、朝鮮半島の三国時代(6、7世紀)に求められるが、日本の像では清純さ、愛らしさがさらに追求されているという。

如来立像 飛鳥時代白鳳期、7世紀後半 銅製鋳造鍍金 像高29.7㎝ N153
左右の腕は同じ高さで通常の施無畏与願印を表す。
大衣は、右肩のものが広い襞、左肩のものが密な襞となって下方に下がり、右端は内側に入り、左側は背中側までまわっている。衣文も右側に寄っていて、2本の紐などもN193と共通する特徴となっている。
立体的な衣褶の端や袖口には魚々子が並び、裳裾には箱襞をつくるなど、装飾的な像である。そう言えば、螺髪も魚々子がびっしり打ってあるのかな。

木彫という珍しい仏像にも、金銅仏と同様に、造られた時期がほぼ推定できる着衣の特徴がそなわっていた。
しかしながら、この少し上方を向いた顔に似たものはない。木製の像も多く造られたが、火事に遭うなどして失われ、わずかしか現存しないのかも知れないし、木彫の如来にはこのような顔貌が珍しくなかったのかもわからないが、法隆寺献納宝物の中では、一番和む仏像である。

こんな風に見ていると、仏像の正面だけなく、側面や背面もどのようになっているのか知りたくなってくる。法隆寺宝物館の修理が終わったら、是非第2室でゆっくり、じっくりと眺めたいものだ。

          法隆寺献納宝物の中に木造の仏像

※参考文献
「法隆寺宝物館」 1999年 東京国立博物館